「苦痛を理解する必要はありません。 | World Challenge

「苦痛を理解する必要はありません。

David WilkersonNovember 6, 2000

私達の郵送者名簿に名前を載せている親愛なるクリスチャン女性が ら、悲痛な手紙がきました。

「1972年に、私達はダウン症候群の息子を肺炎で亡くしました。その子はたったの17ヶ月でした。7年後の1979年、15歳の息子を亡くしました。裏庭で木登りをしていた時に感電死したのです。

そして現在、私達の24歳の息子は糖尿病です。私は癌で、化学療法を受けています。率直に伺います。「どうして 。」と神に訊ねることは罪でしょうか?神は私達の人間性を理解して下さるのでしょうか。

デービット牧師、神に対して少しの間でも怒ったことがおありですか。私にはあります。そしてそれは間違っているのも知っています。このように考えてしま い、恥ずかしです。だけど、どうしてクリスチャン達がこんなにも苦しむのかを考えると混乱してしまいます。私達クリスチャンが、他の人達よりも優れているわけではないということは分かっています。でも、私達が耐え忍んでいるすべての苦 しみに、私は怖気づいてしまいます。

私には恐れと不安があります。しかし、苦しみあるなかでも、その恐れを強い信仰にかえたいのです。それでもまだ、私は 問い続けてしまいます。『どうしてこんな苦しみが。いつまでなの。』」 

私には、感電死して横たわる息子を見つける恐怖がどんなものか想像するだけです。わたしはこの母親の叫ぶ気持ちが分かります。「神さま、どうしてもう一人の息子まで葬らなければならなかったのですか 。なぜ息子二人もが死んで、また一人は不治の病に苦しむのでしょうか。私は癌で、放射線と化学療法のために具合が悪く、私達はずっと病に苦しまされ続けています。なぜこんなにもの苦 むのですか。いつ終わるのですか。」

私には、なぜこの家族がこんな大変な苦しみを通っているかを説明できませんが、これだけは言えます。「なぜ」と訊く事は罪ではありません。私達の 崇める主も、苦しみの中、十字架の上でこの質問をしました。イエス様は、

「悲しみの人で、病を知っていた」と称されたのです。」イザヤ書53:3

私はキリストが私達の全ての疑問を理解しておられると信じています。なぜなら、彼は私達人間の苦しみを体験されたからです。

私達が、「主よ、私達をなぜこんな目にあいますか。あなたの御手によらない事では知ってはいますけれど、あなたは悪魔に私を悩ませることお許しになられました。どうして私が毎朝、 暗雲の下で目覚め、こんな苦痛を耐えなければならないのですか。この悪夢はいつになったら終わりますか。」と嘆く時も、主は私達の言うことを聞いて下さいます。

この世は、人生における苦痛や苦悩に全て説明を求めます。多くの不信者は私に訊きます。「ウィルカーソンさん、もしもあなたの神が本当で、あなたの言うとおりに慈しみ深いのなら、なぜ飢餓 は存続するのですか。なぜ洪水や飢饉によっていっぺんに何千もの人々を殺し、貧しい国々を荒廃させ、アフリカで何百万もの人々がエイズによって殺されていくのを何もせずに見ていられるのですか?なぜ一度も平和を知った事のない、戦争で荒れ果てた国々で、何千もの人々が滅ぼされているのですか?私は単純に、あなたの神は信じられないのですよ、牧師さん。彼よりも私のほうがよっぽど愛を持っていると思いますよ。なぜって、もし私がそれだけの力を持っていればこれら全ての苦難を無くすでしょうからね。」

私はなぜいくつもの国が苦しむのか、なぜそのような恐ろしい飢饉や伝染病、洪水、飢餓、病、そして崩壊、が存在するのかという問いに、答えようと試みるつもりはありません。しかし聖書は、その中で描かれている神の人々、古代イスラエル人をとおして、世界の苦難に光を照らしています。この国民は似た災難を経験しました。大惨害、捕虜監禁、経済崩壊、異常疾病(そのうちのいくつかはイスラエルだけを襲いました)。イスラエルの苦難は折々ひどいもので、敵方さえも憐れんだほどです。

なぜイスラエルはそのようなひどい目にあったのでしょう?それは、聖書が明確に解き明かしてくれます。彼らはどの場面においても、神を捨て、替わりに偶像崇拝や魔術に依り頼んだのです。今日同じことを私達は多くの国々に見ます。例えば、二百年ほどの間、聖職者達がアフリカに次々に流れ込んでいきました。しかしアフリカ全土が、彼らや何百万もの改心者達を迫害し、又は殺害し、キリストを拒んできたのです。悲惨なことに、ある国民が福音を拒絶し、替わりに偶像崇拝や魔術、又はオカルトを
求める時、その結果として訪れるものは貧困、狂気、病、そして言語に絶する苦難なのです。

この事は現在のハイチにおいてまさに真実です。たった今この国は、文字通りに荒々しく怒り狂っています。私達のミニストリーが援助しているその地に住む聖職者の夫婦から手紙を受け取りました。彼らの両隣の家が強盗に遭い、襲われたのだそうです。そして次に狙われているのは自分達だと思い、安全のために祈って欲しいと頼んできました。なぜハイチでそのような災難が起こるのでしょう?悪魔礼拝がはびこり、魔術が実質上の国教だからです。私は宣教旅行でハイチに行った時に直接目撃しました。何人かの呪術医と話もし、その黒魔術が行われた後の結果も見ました。貧困、絶望、恐れ、病、飢餓、そして崩壊です。

世はこれらの事柄の何一つにおいて神を非難することはできません。明らかに悪魔の仕業だからです。悪魔は、島中にある全てのキリスト教の影響を排除したいのです。ハイチで福音は語られました。しかしハイチの人々は、光よりも暗闇を好み、福音を拒んだのです。その為の悲惨な結果は、深い苦しみでした。

地球上いたる所で、罪深い人々が地を、空気を、そして海を汚しています。それにもかかわらず、世間は、人間と動物たちを苦しめている洪水、飢饉、病を引き起こした環境の変化の全てにおいて神を非難します。人々は男女の乱交、複数の相手と肉体関係をもつ権利を主張しておきながら、エイズの蔓延の非難は神に受けさせます。国際連合で働く人々は、貧しい国々で性的交渉を止めるように教えて、嘲笑を受けています。

ここアメリカでは、罪なき血の海が広がり続けています。最近の統計によれば、4千万の赤ん坊たちがこれまで中絶によって殺されてきました。議会では、もし赤ん坊が中絶処置を生き延びたら、次にその母親はその子を死なせる選択をしても良い、という法律の決定を延ばしているところです。その子はただ捨て去られるのです。授乳してもらうことも抱かれることもなく、飢え死にさせられるのです。今日、全米中の看護婦から、『これらの死んだ赤ん坊たちの泣き声が聞こえて夜ねむることができない。』という抗議の声が大きく発せられてきています。

今日の邪悪な世代は、命に対して厚かましいほどの無関心さを持っています。それでいて、私達の子供達がなぜ同級生を殺してしまうのかは理解できないようです。いわゆる普通の青少年5人が、なぜ15ドルもしない食べ物のために持ち帰り中華料理店の主人を殺すのか、分からないと言い張るのです。そういった惨事の原因は、全くもって、明らかすぎるほどです。私達は罪のない血を流すことで蒔いてきた種を刈り取っているのです。

世が、「一体この世界のどこに神などいるんだ?」と叫ぶとき、私はこう答えます。「神は人間たちのしてきたことに涙しておられるのですよ」と。

今、このメッセージを読んでいる多くの人が、激しい苦難の中を歩まれている事でしょう。肉体の痛み、精神的混乱、迫る罪の誘惑などです。そして彼らは「どうして?」と問いかけているのでしょう。もしかして、あなたかもしれません。あなたは迷い、咎めを感じ、神があなたに対して怒っておられるように思い、疲れています。度重なる自省のために疲れ果てています。今までに受けた、さらに気分を悪くさせられただけのお粗末な助言にもうんざりしています。

もしかしたらあなたは、何故かを考えあぐねることをとっくに通り越して、こう訊ねているかもしれません。「主よ、私があなたを愛していることをあなたはご存知です。それなのにこの試練はただただ続いています。もうあとどのくらい耐えられるか分かりません。どのくらい耐えろとおっしゃるのですか?」

使徒であったパウロは、彼の人生は、私達がどのように苦痛に対処すればよいかの例であると言います。彼はこう書いています。

「しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まず私に対して限りない寛容を
示し、そして、私が今度、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。」
(テモテへの第一の手紙1:16)

私の意見としては、イエス様を除いて、パウロほど様々な方法で、又色々な人の手によって、苦しめられた人は、そうはいないと思います。改心したその時点で、パウロはその先、直面するであろう苦難について警告を受けました。

「主は仰せになった、、、"わたしの名のために彼(パウロ)がどんなに苦しまなければならない
かを、彼に知らせよう。"」 (使徒行伝9:15~16)

イエス御自身がここで「私はパウロに、彼が私の名のためにどれほどひどく苦しむかを見せよう」と明言しているのです。それと同様に私達の人生も、パウロの例を追いかけることになるのです。

最も意味深い試練や苦難は、まさに神の御心から直接啓示を受ける、献身的な僕に与えられます。パウロはこう証言します。

「わたしがすぐれた啓示を受けているので、私について見たり聞いたりしている以上に、人に
買いかぶられるかもしれない、、、そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげがI
与えられた。」 (コリントへの第二の手紙12:6~7参照)

もしあなたが、心の全てをキリストに定めたなら、もし親密に彼を知ることを心に決め、彼の御言葉を自分に対して開こうと飽くことなく彼を求めることを決心したのなら、あなたは自らの通り道を、苦難の上に定めることになります。あなたは、冷ややかな、世につかっているクリスチャンには決して分からない、辛い日々、深い憂苦、ひどい苦痛を経験するのです。

これはパウロの人生においてもまさにそうでした。パウロが改心させられた時、パウロはたとえエルサレムにいるイエスの弟子たちからでも、キリストのことを教えてもらうということには満足しなかったのです。この人は自ら主を知りたかったのです。その為パウロは、

「わたしは血肉に相談もしなかった」 (ガラテヤ人への手紙1:16参照)

と言いました。その代わりに彼は3年間、自らをアラビアへと離れさせたのです。(1:17参照)確かに、パウロが受け取ったイエス・キリストの啓示は人から来たものではありません。彼はこう証言します。

「わたしは、それを人間から受けたのでも教えられたのでもなく、ただイエス・キリストの啓示に
よったのである。」 (ガラテヤ人への手紙1:12)

私は聖書にある教師達のことを神に感謝します。彼らは聖書を私たちに開き、信仰の奇跡や奥義の多くを明らかにしてくれます。しかし実の所、イエス・キリストの啓示は教えてもらうことはできません。それは聖霊によって与えられなければなりません。又それは、パウロのように自らを自分自身のアラビアに閉じ込めて、キリストを知ることを決心する者達に与えられるのです。

この資質がクリスチャンを二つの基本的な種類に分けることになります。一方はこう言います。「私はイエスに心を捧げました。」けれど彼らが自らの信仰について断言できる事はそれだけです。地獄ではなく天国に行くことを喜んでいるのです。しかしそれ以上には彼らのキリストとの歩みは進みません。

もう一方はこう言います。「私はイエスに心を捧げました。けれど私は、彼の心を知るまでは満足できません。」この僕は、キリストの重荷を背負い、キリストが歩んだように歩み、キリストがしたように神を喜ばせるまで休むことはありません。そのような決断は単に教えられるものではあり得ないのです。

しかし、気をつけてください。もし本当に、イエスがあなたに心を与えることをあなたが望むのなら、あなたは苦痛に耐えられるよう備えられなければなりません。確実に、あなたが受け取るキリストの啓示にはあなたがかつて味わったことのない苦悩と苦痛が伴うでしょうから。

パウロは神から、数世紀にわたって、人々に隠されていた啓示を受けたと言っています。

「この奥義は、いまは、御霊によって彼の聖なる使徒たちと預言者たちとに啓示されているが、
前の時代には、人の子らに対して、そのように知らされてはいなかったのである。」
(エペソ人への手紙3:5)

パウロが啓示を受けた事について語る時に(コリント人への第二の手紙12:6参照)彼が言わんとしている事は、「覆いを取り去って隠されたものを明るみに出す」という事です。神は偉大な信仰の奥義を暴露し、パウロに彼の救いの奇しき御業をお見せになったのです。

ついにパウロは、救われた直後の14年程前に受け取った至高な幻について触れます。彼は、

「パラダイス(天国)に引き上げられ、そして口に言い表せない、人間が語ってはならない言葉を
聞いた」 (コリント人への手紙二・12:4)

と描写しています。つまりパウロは言葉には言い表せない、天国の新事実を与えられたのです。なんと驚くべき豊富な啓示を、パウロは与えられたのでしょう。彼はこの世でかつて一度も示されたことのないものを見聞きしながら、天国を歩くことを経験したのです。しかしながら、これらの啓示を受け取るとすぐに、パウロは大いなる苦しみへと入ることになります。

「わたしがすぐれた啓示を受けているので、私について見たり聞いたりしている以上に、人に
買いかぶられるかもしれない、、、そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが
与えられた。」
(コリント人への手紙二12:6~7)

信仰者達の間には、二つの苦難の種類があります。一つめは、全ての人間にとって共通な苦痛と誘惑です。イエスは、雨は正しい者の上にも、正しくない者の上にも降る(マタイによる福音書5:45参照)と言われます。彼は人生における諸問題を引き合いに出しているのです。

聖徒と罪人らに等しく共通する、結婚における苦闘、子供に関する心配事、抑うつ状態や恐れとの戦い、経済的苦難、病や死などです。しかし、正しい人だけを苦しめる苦難もあります。ダビデはこう言います。

「正しい者には災いが多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。」
(詩篇34:19)

注目して下さい。ダビデは、私達の救いが突然、又、すぐに来るとは言っていません。多くの場合、
私達の癒しは祈りと信頼と信仰を通して、時間を経てやって来るのです。

これが、パウロが耐え忍んだ類の苦難です。彼が受け取った偉大な啓示は、瞬く間に彼を一生の間続くであろう深い苦痛の道に置いたのです。考えてみて下さい。パウロがこの手紙をコリントの人々へ書いた時、彼はクリスチャンになって14年目でした。それでもまだ、彼は自身が述べたあのとげからは救われていなかったのです。彼は自分が、おそらく死ぬまでその苦痛と共に生きるであろう事を知っていました。

私達は、パウロのとげが何であったのかを正確には知りません。聖書学者達は、おそらく視力の問題、舌足らず、もしくはどもりだったのではないかと思索します。ある解説書は、パウロにとってのとげは性格的欠陥、特に短気なことであったと証明しようと、非常に長々と書き綴られています。他の推論は肉的渇望に始まり、しつこく悩ませる悪魔的思考、それこそ毒舌の妻であったとすら言うまでに及んでいます。

何にしても、パウロは彼の人生においての大変な戦いを認めました。彼は「あの偉大なパラダイスの啓示から出たときに、私のからだに一つのとげが現れた。サタンの使いが私を撃ったのだ」と言っているのです。ここでの「撃った」という箇所で彼は、「顔に平手打ちをした」という事を意味しています。「神が悪魔に私の顔に平手を食らわせることを許した」と言っているのです。

ではこのパウロの顔を平手打ちで撃ったサタンの使いとは何者だったのでしょう?単なる視力の低下や、不明瞭な話し方などの身体的苦痛だったとは思いません。もしくは、かつては信じていた事ですが、パウロにとっての打撃は、彼を落胆させるための悪魔のうそや非難の連続だったとも思いません。
違います。パウロの言葉、

「人に買い かぶられる」 (コリント 人への手紙二・12:6)

の所に手がかりがあります。ここでパウロは自己賞賛、隠れた誇りのことを言って いると私は信じています。パウロはパリサイ人で、全てのパリサイ人は高慢だっ たということはお分かりですよね。彼ら の内には「一般大衆のような下等な罪人 でなくて私は嬉しい」という高慢な態度 が根付いました。それに加え、パウロに は肉的に誇れる理由がありました。彼は 豊かに聖霊によって恵まれていただけで はなく、非常に聡明だったのです。 私は悪魔が、この誇りがパウロの一番の弱点だと知っていてそこを撃ったのだと信じています。パウロを誉めそやし、彼のうぬぼれを撃ち、次々と高慢な考えによって攻撃したのです。「この啓示を受けたのはたった一人あなただけですよ」と。私達の最大の弱みを日々サタンが養うこと以上に、大きなとげがあるでしょうか?パウロは彼の誇りを克服するため、ひっきりなしに十字架へ行き、恵まれた才能をささげなければいけませんでした。

サタンはダビデの性癖が情欲であった事も知っていました。彼はこの信心深い人の弱みを、目の前で一人の女性を入浴させることで誘ったのです。同じように、悪魔はいかなる時も、誇り、情欲、野心、恐れなど、私達の最大の弱みであり得る物なら何でも、それらを養う機会と誘惑を使って私達の顔をひっぱたくのです。

しかし悪魔は、神の許しを得ることなしにパウロを撃つ事はできませんでした。例えば、神がサタンにヨブを試す許しを与えた事ででも分かります。ここで神は、パウロのとげを許す上で目的をお持ちだったのです。神は、パウロが証をしていくにあたって、彼にとって脅威になるのは肉欲でも、貪欲さでも、人からの賞賛でもないことをご存知でした。パウロはこれらの肉的なものを念頭にはおいていなかったのです。むしろ彼の弱みは、偉大な啓示を受け取った事から来る誇りでした。

パウロは

「この事について、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと三度も主に祈った」
(コリント二・12:8)

と書いています。彼は心の底でこう言っているのです。「私は絶えず、心を尽くして主を捜し求めた。そして彼はご自身を私に、私の内に明らかにされ、天国での彼の栄光さえ見せて下さった。しかしまさにその瞬間私は、ずきずきと痛む自分の人間としてのもろさを思い起こされ始めた。私は主に嘆願した。"どうかこれを除いてください。この弱点と、悪魔による
悩ましにはうんざりです。いつまでこれらの攻撃に挫けさせられ、苦悩を耐え忍ばなければならないのですか?主よ、お願いです、助けてください。"」

神は、わざわざパウロに何かを説明しようとはなさいませんでした。苦難を終わらせて欲しいという要求も聞き入れず、とげを除く事も、サタンの使いを追いやる事もされませんでした。しかし 、神は、それよりずっと良いものをパウロに与えられました。どうやって私達が日々、勝利を手にしてやっていくかを明らかにされたのです。

「ところが、主が言われた、"わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの
力は弱いところに完全にあらわれる。"」 (コリント人への手紙二・12:9)

神はここでこうおっしゃっているのです。「パウロ、わたしはあなたに日々の試練のための恵みを与える。そしてそれはあなたが立ち向かう全てのものに対して十分であろう。経験している全ての事を、あなたが理解する必要はないのだ。だからなぜかを 訊くことはもうやめなさい。あなたは私の恵みを得ているのだから。それはあなたが必要とするすべてなのだよ。」

私達は、信じられないような苦難の人生を送っている人々から手紙を受け取ります。魔術で満ちた家に育った、又は暴力をふるわれ、虐待され、捨て去られた若者達が、手紙を書いてきます。ある一人の16 歳の青年は、両親が彼に麻薬を始めさせたと書いてきました。これらの人々は泣き叫びます。「私は神様を愛しています。祈り、又、彼を捜し求めもしました。全ての信頼を彼に置きました。けれどそれでも毎日、強力な敵に直面します。私には救いの兆しがまるで見えないのです」と。

私は誰も落胆させたくはありませんが、あなたのその苦痛は、パウロのように神にとって最も正しい人々へ降りかかる類の物かもしれません。もしそうなら、あなたは一日一日、彼の恵みに完全に依り頼んで行かなければいけないでしょう。あなたの救いは突然来る一度きりのものではなく、日々の歩みにあるものなのです。

もう一度言います。あなたが神に、なぜこんなにもの苦悩と、終わりのない痛みがあるのかを訊ねることは罪ではありません。ただ私は、こうも言わせて頂きます。もう訊ねるのはおよしなさい。神はその類の質問にはお答えにならないのですから。彼は私達の苦悩を説明する義務を負ってはおられないのです。

ダビデは心から訊ねました。

「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか、、、何ゆえわたしをお忘れになりましたか。
何ゆえ私は敵のしえたげによって悲しみ歩くのですか、、、わが魂よ、何ゆえ私の
うちに思いみだれるのか。」 (詩篇42:5,9,11)

私達は神がダビデを愛された事を知っています。しかし聖書はどこにも、神がダビデの質問に答えたという記録を残していないのです。

イエスはこう訊ねられました。

「この杯をわたしから過ぎ去らせる事はできないのでしょうか?わが父よ、どうして
わたしをお見捨てになったのですか?」 (マタイによる福音書26:39,27:46参照)

しかし、聖書のどこにも、神から最愛なる独り子への答えはありません。

私は自分の人生で、これらと同じ質問をしてきました。28歳の時、暴力団や麻薬中毒の人々に働きかけるためにニューヨーク市へ家族を連れてやって来ました。越して来てから数年たったある日、私の妻グエンの苦痛が倍増しました。彼女を急いで病院に運び、そこで彼女は緊急手術を受けたのです。そして、私達は恐ろしい言葉を耳にしました。彼女の腸
にオレンジ大の腫瘍があったのです。

その時神に私がした質問は今でも覚えています。「なぜですか、主よ。あなたのお導きに従って、全てを捨ててここへ来ました。この地域で奉仕をするために。それなのになぜ今このような事になっているのですか。何かに怒られておられるのですか? 私が何かしたのでしょうか?」私は同じ質問をあと5回しました。グエンが他の癌に撃たれた時です。彼女が28回の手術を受ける度にも訊ねました。

テキサスのヒューストンで、娘のデビーが癌の苦悶のために胎児のように身体を丸める度に、私は再び神に訊ねました。彼女は母親と同じ場所に腫瘍があり、私は泣き叫びました。「主よ、グエンだけでも充分でした。もうたくさんです。なぜですか?」私はもう一人の娘ボニーが、テキサスのエルパソの病院で癌のための放射線治療を受けていた時にも又一度、なぜかを訊ねました。彼女は三日もの間、鉛の衣服をまとった医師達に囲まれ、命にも関わる放射線をその身に受けたのです。医師は彼女の命は30%の確率であると言いました。私は「神よ、あなたは私にお怒りなのに違いありません。他に説明の仕様がないではありませんか。どれだけ耐えればよいのですか?」と泣きました。

最後には一人静かな所へ移り、二時間、私は神に叫びました。「この事に終わりはないのでしょうか。私は自分の全てを毎日あなたに捧げています。それなのにあなたを求めれば求めるほど、私はより多くの苦難に遭うのです。」
私はサタンの使いに撃たれるのがどんな事かも知っています。悲しいほどに誘惑され、そそのかされました。私の周り全てを、奮い立った敵達が囲んだのです。噂によって中傷され、誤って非難され、友人達から拒絶されました。これらの暗闇の時期に私はひざまずき泣きました。「なぜですか、主よ。私が望むのはあなただけです。なぜサタンに私をしつこ
く悩ますことをお許しになるのですか?どれ程長くこの弱点と奮闘しなければいけないのですか?」

しかし、神はパウロに何も説明されなかったのと同様、私の質問にもお答えになりませんでした。私は、天国に行った際に,主が全ての事を私たちに説明して下さると信じています。私達は、質問に答えて頂くのに無限の時を得るのです。そしていったん彼がそれを明らかにされる時、私たちは全ての事柄が完璧なご計画の一部であって,苦難の中にいる私達を、彼において前進させ続けるには何が必要なのか、を知っておられた愛情深い父によって治められていたことを知るでしょう。

その日まで「あなたが克服するのに必要な恵みの全てをわたしは持っている」と神は言われる私達はよく、恵みとは単に、私達には不相応な神からの恩恵と祝福であると聞きます。しかし私は、恵みとはそれ以上のものであると信じています。私の考えでは、恵みとは、私達の苦悩の時におけるキリストの全てです。苦痛を私達が切り抜けるための力、能力、優しさ、あわれみ、愛などです。

過去の大きな試練や苦悩、誘惑や苦痛の数年を振り返ると、神の恵みは十分であったと証言できます。彼の恵みがグエンを、デビーとボニーをも持ちこたえさせました。今日、妻も娘達も全くもって健康で強く、その事に私は主に感謝しています。

彼の恵みは私をも切り抜けさせました。そしてそれは今日において十分なのです。いつか栄光の内において、父が私に全てを通して持っておられた美しいご計画を明らかにされるでしょう。どうやって私が全ての試練を通して忍耐を獲得し、人々への思いやりを学び、彼の力が私の弱さの内で完全となり、私への彼の完全な誠実さを学び、願わくは私がどの
ようによりイエスに似た姿へと変わったかを、見せて下さるでしょう。

私達はそれでもまだなぜかを訊ねるかもしれません。しかし、それは神秘に包まれたままでしょう。イエスが私のために来られるまで私はそれを受け止める覚悟にあります。試練にも苦痛にも終わりは見えません。私は50年間持ち続け、そしてまだそれは続いています。

しかし全てを通して私は今だに、キリストの力を増え続ける量りでもって与えられています。実際、彼の栄光の最も偉大なる私への啓示は、私にとって最も辛い時にきました。同様に、あなたが最も底辺にいる時に、イエスはあなたの内に、彼の最大限に量られた力を放って下さいます。

私たちには自らの痛み、憂うつさ、不愉快さなどを全く理解できないかもしれません。また、私たちはどうして癒しのための祈りが聞かれないのか、全くもって知ることがないかもしれません。けれど、私たちにはそれらを知る必要はないのです。私たちの神はもうすでにこう
答えて下さっています。「あなたはもうすでに私の恵みを得ている。そして、わたしの愛する子よ、それがあなたの必要とするすべてなのだよ。」と。

(翻訳:星 志穂)

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