「疑い―神の最も嫌われる罪 」

私たちの犯す罪のうち、疑いは神さまが最も嫌う罪です。聖書の新旧約両方に、疑いは主を嘆かせ、神の怒りを誘い、苦痛を与えると記されています。その例を、神がご自分の民をパロの手から解放されたときの古代イスラエルに見ることができます。

詩篇の著者はこう嘆いています。

「 私たちは先祖と同じように罪を犯し、不義をなし、悪を行なった。私たちの先祖はエジプトにおいて、あなたの奇しいわざを悟らず、あなたの豊かな恵みを思い出さず、かえって、海のほとり、葦の海で、逆らった。」(詩篇106:6,7)

著者はここで懺悔(ざんげ)しています。彼が懺悔していたイスラエルの民が犯した悪しき罪とは何だったのでしょう。それは、紅海て驚くべき奇跡を彼らのために神が行った後も、彼らが主の救いをなお疑ったからです。

詩篇の著者は私たちに、紅海の辺(ほとり)で民らが勝利を喜んでいる光景を思い描いて見よと語っています。主は屈強のエジプトからイスラエルを解放し、歴史上、最も偉大な奇跡の一つが行われたばかりでした。それなのに、そのすぐ後、試練に遭っで、民はどう反応したでしょうか。彼らは神の真(まこと)を疑ったのです。

著者が「信じられますか。私たちの故に、主は大いなる御業を行い、敵の手から救い出しました。こんな信じられない奇跡の後でも、私たちは主を信頼しなかったのです。どうして私たちは主をこのように試したりできるのでしょうか」と言っているのです。

イスラエルの民の姿は、紅海のほとりに立ち、勝利を得た時とは全く違っていました。彼らはエジプト軍が海に溺れるのを見ながら、讃美し、喜び踊りました。

「 「主が葦の海を叱ると、海は干上がった。主は、彼らを行かせた。深みの底を。さながら荒野を行くように。主は、憎む者の手から彼らを救い、敵の手から彼らを贖われた。水は彼らの仇をおおい、そのひとりさえも残らなかった。そこで、彼らはみことばを信じ、主への賛美を歌った。((詩篇106:9~12)

イスラエルの民はふさわしい歌―全能の神を称える讃美―を唄いました。しかしその讃美は場違いたったのです。誰でも勝利の後は喜び、讃美が捧げられます。しかし、イスラエル民は紅海で試みられ、神はを全く民に失望しました。彼らが全く主を信じていなかったからです。

このような奇跡の解放を経験した彼らに関して、詩篇の著者は衝撃的なことをいっています。

「 しかし、彼らはすぐに、みわざを忘れ、そのさとしを待ち望まなかった。しかも彼らは麗しい地をさげすみ、神のみことばを信ぜず、…」( 同12~13)

この個所はどう言うことでしょう。神さまはエジプトでご自身を現され、ご自分の民のために驚くべきしるしと不思議をおこなわれました。一〇回も主はエジプトを裁きつつ、イスラエルの民は全く保たれました。

しかし、詩篇の著者によれば、イスラエルの民はこれらの奇跡(十の災厄)を全く覚えてなかったのです。イスラエルの人々は厳しい状況になれば、この過去の不思議な業を自然の災害とでも見たのでしょう。モーセは人々に、それらが全て彼らのために行われる神の業であると諭そうとしました。彼は嘆願しました。「主はこれらの不思議をあなた方を解放するためにおこなわれたのです」それでも彼らは耳を貸さず、主の御業を当たり前のこととしてしまったのです。

もちろん、私たちは決して奇跡にたよる信仰生活をしてはいけせん。どちらかというと、聖霊様は試練や試みを通して、私たちの信仰を強められます。そう言っても、イスラエルの民はこの世で見た事のない奇跡を十回も体験したのです。それに対して、紅海のほどりにたどり着いたとき、神に対する彼らの信仰は少しも強められてはいなかったのです。

イスラエルの民は、神の御旨によってどうにもならない状態におかれたのです。

イスラエルは勝利を得て紅海のほとりに立っていました。その場所はヘブル語で「切り立った崖への入り口」と呼ばれています。また、「危機の始まり」とも呼ばれています。神の民たちは事実、広大な荒野への入り口に立っていたのです。それでも主は彼らをそこへ導かれました。それにはちゃんとした目的があったのです。

著者が言っているはこうです。 「信じられますか。私たちの故に、主は大いなる御業を行い、敵の手から救い出しました。こんな信じられない奇跡の後でも、私たちは主を信頼しなかったのです。どうして私たちは主をこのように試したりできるのでしょうか」

イスラエルの民の姿は、紅海の海辺に立ち、勝利を得た時は様子が全く違っていました。彼らはエジプト軍が海に溺れるのを見ながら、讃美し、喜び踊りました。 

「主が葦の海を叱ると、海は干上がった。主は、彼らを行かせた。深みの底を。さながら荒野を行くように。主は、憎む者の手から彼らを救い、敵の手から彼らを贖われた。水は彼らの仇をおおい、そのひとりさえも残らなかった。そこで、彼らはみことばを信じ、主への賛美を歌った。」( 詩篇106:9~12)

その時、イスラエルの民は全くふさわしい歌―全能の神を称える讃美―を唄っていました。しかし彼らは間違った場所でその讃美をうたっていたのです。誰でも勝利の後は喜び、讃美が捧げられます。しかし、イスラエル民は紅海で試みられた時、神を全く失望させてしまいました。彼らは主をそもそも信じていなかったのです。

あの奇跡の解放を経験した彼らについて、詩篇の著者は衝撃的なことを言っています。

「 しかし、彼らはすぐに、みわざを忘れ、そのさとしを待ち望まなかった。…しかも彼らは麗しい地をさげすみ、神のみことばを信ぜず、」( 詩篇106:13,24)

これはどう言うことでしょう。神さまはエジプトでご自身を現され、ご自分の民のために驚くべき徴(しるし)と不思議を行われました。10回も主はエジプトを裁きつつ、イスラエルの民は全く保たれました。

しかし、詩篇の著者によれば、イスラエルの民はこの奇跡(十の災厄)のことを全く覚えてなかったのです。厳しい状況になって、これらの過去の不思議をただの自然現象による災害とにでも考えたのでしょう。モーセは人々に、それらが全てイスラエルのために行われる神の業であると諭そうとしました。彼は嘆願しました。「主はこれらの不思議をあなた方を解放するため行われたのです」彼らは、主の御業を当然と受け取りつつも、神を信じなかったのです。

だからと言って、私たちは決して奇跡だけを信仰の礎としてはいけません。どちらかというと、聖霊様は試練や試みを通して、私たちの信仰を強められます。それでも、イスラエルの民はかつて見たことのなかった奇跡を十回も体験したのです。それにもかかわらず、彼らが紅海の海辺に着いたとき、神に対する信仰は全くなかったのです。

イスラエルは勝利を得て紅海の海辺に立っていました。その場所はヘブル語で「切り立った崖への入り口」と呼ばれています。また、「危機の始まり」とも呼ばれています。神の民たちは事実、広大な荒野への入り口に立っていたました。主は彼らをそこへ導かれましたのです。それにはちゃんとした目的があったのです。

その後の歩みは、神さまは彼らの全ての必要を、超自然的な方法をもって、満たしたものでした。荒野に食料品店はありはしませんが、イスラエルはマナによって養われました。水もなかったのでしたが、主は岩から泉を湧き立たせ、彼らを潤(うるお)しました。ショッピング・モールなんて勿論ありませんでしたが、彼らの衣服は不思議に古びなかったのです。神さまはどんな小さな事も見落としませんでした。

主はエジプトを出る前、彼らに金銀の重荷を積ませましたが、荒野に入っでから神は彼らに不思議な力を与えられました。彼らの中に弱った人は誰もいませんでした。神は荒野の灼きつく太陽から、雲をもって彼らを守られました。夜には、超自然的に火を与え、彼らを砂漠の夜の寒さから守り、夜の闇の中でその輝きをもって力づけました。

イスラエルは全く危険に遭っていないのです。神はいつも彼らの必要を満たしたからです。しかし、神が彼らに与えられないものがありました。それは「信頼」と「信仰」の二つでした。神の奇跡的な備えの数々にも関わらず、彼らは神を疑い続けたのでした。

ここで皆さんに質問があります。なぜ神さまはイスラエルを選びの民とされたのでしょうか。なんといっても、イスラエルは小国であり、全く力のない民でした。彼らをエジプトから連れ出し、カナンの地へと移したのは何の目的だったのでしょうか。彼らによい家と、肥えた葡萄畑と、乳と蜜の滴る場所を与えるためだったのでしょうか。彼らに安らかな環境を与え、何世代にも亘って礼拝や犠牲が自由にできるようにだったのでしょうか。

いーえ。この大いなる救いは、その民が主の恵みを受け、好きなようにさせるためではありません。主は、彼らがこれらを体験し、彼らの内に何かを生みださせようとされました。ですから、神は彼らをかつで経験しえなかった、災難や危機の目前に置かされのです。

要約すると、神さまは彼らを、失われた世への託宣として訓練しようとされたのです。これらの出来事は最初から迷いだされた人類に救いをもたらすためだったのです。主はイスラエルをご自身の恵みと愛を現す見本として、諸国への光として選ばれたのです。神さまは国々を、たとえ神に反逆した国ても、愛することをこの世に知らしめようとされたのです。

イスラエルの預言者たちはこれを知っていました。彼らは神の詔(みことのり)がエルサレムから世界に広げられるという預言を繰り返しています。そして、あの荒野で、「最初の」、神に全く頼る人々を育てようとされたのです。国々に対し、神がお一人であり、神はその信じる民のために不思議をおこなわれると教えようとされたのです。

しかし、疑いと不信仰で一杯の人々を通して働きを主はなさいません。

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)

イエスさまでさえ、人々の不信仰の故に御業を行わなかったのです。

「そして、イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇蹟をなさらなかった。」(マタイ13:58)

主は私たちを救って、際限なく神の恵み、慈しみ、栄光に浸らせようとされたのではありません。主は、一人ひとりに対する永遠の目的があって、その目的は、祝福、交わり、啓示、以上のものです。目的とは、失われているの人類の救いです。神は、主を信じ、信頼する人々を大いなる福音伝道の器とかたちつくる為に、捜しておられるのです。

主は神の栄光の証し人に天使を用いません。いえ、神は人々をお使いになります。主は私たちを特別な、選ばれた種族として訓練しようとしておられるのです。(第一ペテロ二・9参照) その御言葉が私たちの生活を通して証明され、私たちが宣言するとき、世が信じるようになるためです。主は苦しみを通り強められ、厳しい試練に砕かれながらも従う、信仰の人々を信じない国々に示したいと願っておられます。

ギデオンの時代にも、神さまはそのような人々を捜されました。ミデアン人たちと戦うために、ギデオンが志願者を募ったとき、何千ものイスラエル人が名乗りを上げました。しかし主はギデオンに言われました。

「 「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った。』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。今、民に聞こえるように告げ、『恐れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい。』と言え。」(士師記7:2~3)

神さまはギデオンに言いました。「怖がっている者は、家に帰しなさい。わたしの軍が恐れに侵されてはならない」神は志願してきた者の一部を退かれたのです。そして、二万二千人の疑う者たちが帰されました。ギデオンに志願者の数を一万人に減らしましたが、神さまはそれも多すぎるといわれました。主は最終的に、戦いをくぐり抜けた戦士三百人を選ばれました。

これは私たちに何かを語たっていますか。主が世に送るべく福音の使者を求められるとき、恐れや、疑いを持ち、試みられななかった人々の教会を選びません。また権力を持った、有力な宗教団体や、高い教育を受けた神学者を募りません。もちろん、神さまは様々な団体や、高い教育を受けた者たちを用いることもできますが、博識とか有力である事と、神が求められる、試練と試みと経た者の資質とは異なるのです。

では、迷いだされた、痛みつつけられている世界に手を差し伸べるには、何が必要なのでしょうか。それは「困難と試練」の学校で育成された、小さな部隊です。神さまは試めされる事を厭(いと)わない人々を求めておられます。神は、火の試みを甘んじて受ける者、純金のように信仰が精錬され、完成できる者たちを選び出されています。

イスラエルは荒野で四十年間も,どうやって生き延びたのですか?彼らは天からのパン、マナを糧としていたのです。この「御使いの食べ物」には、イスラエルの民が病気にかからないために必要な、全ての栄養がありました。神の民は、エジプトの病気にも決してかかる事がありませんでした。彼らの周りのあらゆるところで、カナン人やペリシテ人 は疫病で死んでいく時も、イスラエルはずっと病気にかからなかったのです。

私は主の働きをしてきて、、多くのクリスチャンが歩むあるパターンに気づきました。神さまが私たちを救われてすぐ、試みの荒野に導かれることです。これはイエスさまの人生においても同じでした。主は、水のバプテスマを受けた後、、試みを受けられるために荒野へと導かれました。(ルカ四・1、2)またイスラエルの民もしかりでした。エジプトから解放されるやいなや、彼らは荒野の危機に直面しました。

こんことが何故起きますか。それは主は不可能な状況で、主に信頼する者たちを探しておられるからです。そして、信仰に立ちつづける、試練と試みを耐える神の僕たちが如何なるかを、この世は見ています。

ダニエルも不可能な状況で主を信頼しました。ダニエルを妬(ねた)む同僚が、謀略して、ダリヨス王に三〇日間の祈祷禁止令を発布させました。大臣たちの思惑通り、ダニエルは禁止令を破り、日に三度の祈りを続けました。ダリヨス王はダニエルを寵愛していましたが、己が発布した勅令によってこの忠実な男を獅子の穴に投げ込むはめになりました。

ダニエルは禁止令を冒せば死刑になると充分承知していました。しかし彼は神を全く信頼して、祈りを決して止めませんでした。主がこの試練の中で、彼を見守っておられると分かっていたからです。

こんな経過があって、ダリヨス王はダニエルがどうするか見ていました。彼はダニエルを救うべく、手を尽くしましたが、実現できませんでした。とうとう、ダニエルが捕えられ、獅子の穴に投げ込まれるとき、王は彼にこう言いました。

「あなたがいつも仕えている神が、あなたをお救いになるように。」( ダニエル6:16)

その夜、王は眠れませんでした。御言葉はこの時のことをこう記しています。

「こうして王は宮殿に帰り、一晩中断食をして、食事を持って来させなかった。また、眠けも催さなかった。」( ダニエル6:18)

もしもあなたがイエス様をあなたの救い主、癒し主、不可能を可能にされる神と告白するなら、この世はあなたが、不可能な状況にどう対処するのか見ています。彼らの目は、神のよき事、御力、栄光について大胆に語る者たちに釘づけになっています。また、悪魔も私たちの信仰が躓(つまず)くことを願い、注目しています。

詩篇の著者はこう記しています。

「あなたのいつくしみは、なんと大きいことでしょう。あなたはそれを、あなたを恐れる者のためにたくわえ、あなたに身を避ける者のために人の子の前で、それを備えられました。」(詩篇31:19)

試みにあって主を信頼する者たちに注がれる、この「大きないつくしみ」とはどのようなものでしょう。それは、あなたの信仰がどんな状況でも絶えることのないという、栄光の、確かな証がその慈しみなのです。

神さまはダニエルの信仰にどう応えましたか。主は飢えた獅子の口をふきました。翌朝、ダリヨス王は神がダニエルの祈りにどう答えれたかを知りたくて落ち着けず、早く起きました。彼は獅子の穴に走り寄ると、

「…悲痛な声でダニエルに呼びかけ、ダニエルに言った。「生ける神のしもべダニエル。あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか。」(ダニエル6:20)

今でも同じ事を世は問います。ダリオス王のように、この世は神の力の証拠を目にしたいのです。そしてイエスさまが戻られるまで、私たちに問い続けます。「クリスチャンよ、あなた方は神に忠実に仕えている。あなたは断食し、祈り、神の栄光と力を証している。しかし、あなたは今試みられている。この激しい試みの中で、あなたの神はあなたを支えているのか。獅子の穴の中にいる今、あなたの証はどんなものか。」

次のダニエルの声を聞いたときの、ダリヨス王の喜びはどんなものだったのでしょう。

「王さま。永遠に生きられますように。私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も加えませんでした。」(ダニエル6:21,22節)

ダニエルは無事でした。しかし、獅子の穴の中で、この神の僕が安眠したとは思えません。ダニエルはスーパーマンではなく、私たちと同じ人でした。私たちの神さまは、こんな危機で、私たちに不自然に毅然と行動する事は求めていません。こんな状況では私たちが狼狽することはごく自然なことなのです。

私は、ダニエルがずっと起きて祈ったと思います。獅子があくびをし、唸る度に彼は静かにこう祈ったのでしょう。「私はあなたに信頼します。主よ、あなたがこの獣の口をふさぐことを信じます。」彼は堅く信仰に立ちました。御言葉はこう記しています。

「…ダニエルは穴から出されたが、彼に何の傷も認められなかった。彼が神に信頼していたからである。」(ダニエル6:23節)

人々の目より、ひとりの人が神を信頼しました。そしてその証は帝国全体に影響しました。御言葉にはこうあります。

「そのとき、ダリヨス王は、全土に住むすべての諸民、諸国、諸国語の者たちに次のように書き送った。「あなたがたに平安が豊かにあるように。私は命令する。私の支配する国においてはどこででも、ダニエルの神の前に震え、おののけ。この方こそ生ける神。永遠に堅く立つ方。その国は滅びることなく、その主権はいつまでも続く。この方は人を救って解放し、天においても、地においてもしるしと奇蹟を行ない、獅子の力からダニエルを救い出された。」(6:25節~27節)

ここでダリヨス王は何を言っていますか。彼は神を心の底から称えているのです。神が自然をを霊妙に治められるだけではなく、ダニエルを死から救ったからです。この異教の王は、宣べている事を真に信じるひとりの信仰者を見たのです。ですから、彼は宣言します。「私は神の証を保っている人を見た。彼は決して疑わなかった。そして、主なる神が彼を悪しき力から救われた。」

キリストの裡(うち)には、将来の不安がない所があります。そこには、突然災難が、問題がふりかかる恐れも、失業の心配もありません。人を気にしたり、堕落したり、魂を失う恐れもありません。そこには、神の真(まこと)に対する完全な信頼にあります。その場所をヘブル書の著者は完全な「安息」と呼んでいます。

その安息がイスラエルの民には与えられていたのです。しかし人々の疑いと不信仰が、彼らを神の安息入れなくしました。

「こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから」(ヘブル4:6)

イスラエルは恐れ、絶望し、次の危機がいつふりかかるのかと考えていました。その結果、彼らは試練の中で荒れ廃れていきました。

もしも、イスラエルがこの安息に入っていたなら、その民のうちにあって神の業は完成したことでしょう。しかし彼らが安息に入ることがなかったため、主は何世代にも亘って、「…その安息に入る人々…」(ヘブル4:9)を探しておられるのです。

神さまはここでこう言われています。 「この安息への招きは、今日、あなたのものです。今も、疑いと恐れの全くない場所が私のところにはります。その場所はなにが起ころうとあなた方が行くべく備えました。」 そうです。主の御言葉は薦めています。

「こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。」(へブル4:1)

今日、多くのキリスト者が、この「安息」のことを何も知りません。日々の惨劇や、災害、死亡のニュースに、彼らは恐れ、絶望します。彼らの祈りは常にこうです。「ああ、神さま、どうか愛する者たちを取り去らないで下さい。私には耐えられません」

しかし、あなたが主の安息にいるなら、このような恐れに囚われません。予期せぬ危機にうろたえたり、くじけません。あなたは希望を失うことなく、困難をもたらしたといって神さまを責めることもありません。もちろん、あなたは人と同じように苦しみを耐えるます。しかし、神さまがあなたの全てを治めれるのを知り、あなたの魂にあって安息するのです。

私の妻グエンが三四歳のとき、初めてガンが見つかりました。その知らせを聞き、途方に暮れました。私たちはギャングたちに伝道する働きのために、ニューヨークに引っ越したばかりでした。私は通りにいる、ギャングや中毒者たちに伝道しながら、心配や恐れで涙がこみ上げくることと戦わなくてはなりませんでした。しかし、主は繰り返し私に語られました。「わたしは真である。デイビッド、わたしはあなたや、あなたの愛する者たちを見捨でない」神はガンに関わる試みの中を、私とともに歩んで下さいました。同じく、神に従う人達に、神はともに歩まれるのです。

しかし主は、私たちにたった一度きりの勝利は願っていません。主は私たちが試練の後に「神さま感謝します。私はあの試練にあって信仰を守りました」が主が望まれる最終到達点ではありません。確かに、あなたは今回の試練は通り抜けられました。しかし勝利に喜んでいた、紅海の海辺のイスラエルのように、次の試練が何れあるのです。そして、それは全く別の試みかも知れないのです。

神の安息の中に住むというのは生き方です。私たちの大祭司は、私たちの弱さから来る様々な感情を感じて下さいます。主は私たちがそのことを知り、主の平安と主への信頼に支えられて全ての試練の中を通ることを願われているのです。

誤ってはいけません。私は何か感情のない涅槃(ねはん)の境地に達せよとを言っていません。多くのニューエイジの教師たちは、未来の危機を耐えるためには、心を守り、情をすべて除くべきと教えています。

単純にいえば、もし、あなたが周囲の人たちを気遣わなければ、傷つかないという訳です。だから災難に備えて、自分を硬くしなさいと教えています。

この人達が教えるとおり、神の僕が無感覚に陥るなら、神は決して栄光をお受けられません。主の安息とはその様なものではありません。それは全ての事において忠実にある主の約束を私達が信頼する学びなのです。

私は四人の子どもと、十一人の孫に恵まれています。そして、私たちの子どもや孫たちが苦しんでいるのを見て、彼らの苦しみを共にしたいと思わないことは一度だってありませんでした。そのようなときは、彼らをいやし、解放できるならと力の及ぶ限り何でもします。では、地上の父がそうであるならば、どれほど私たちに天の父は、愛したいと、試練の中をともに歩み、傷をいやしたいと願っておられることでしょうか。

神の安息に入るには、私たちは自らの努力や汗を棄てなければなりません。信仰だけが私たちを完全な安息に導き入れるのです。

「信じた私たちは安息にはいるのです。…」(ヘブル4:3)

つまり、どんなに不可能に見えても、神さまは私たちを救い下さると信じるのです。

「神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」(ヘブル4:10)

私たちがキリストの安息の中にいるなら、困難にあって、勇気があるような素振りをしなくてもいいのです。危機に対処しているような、平気な顔も無意味です。また、恐れ、神の愛を疑うことを心配しなくてもいいのです。簡単にいえば、「何々しなければ」の論理で私達は日々を歩まなくなるのです。私たちは、ただ主への信頼を学ぶのです。

では、このような信頼はどうすれば得られるでしょう。私たちは祈りで主を求め、御言葉を黙想し、従うだけです。あなたは反論するかもしれません。「でも、それも、『何々しなければ』ではないか。」私はそう思いません。これは信仰の歩みなのです。この規範を守り、聖霊が私たちのうちに働かれ、必要のときに用いるための力を培って下さると信頼するのです。あなたは神があなたを強めているとは感じないかもしれません。しかし、次試みられた時、その天の力が私たちの内に現されるでしょう。

これは私が主を努めて求める、―断食し、祈り、学び、聖霊の力によって主の教えに従う―最も大きな理由です。私は模範を示すべき牧者であるからそうしているのではありません。私がそうするのは、これからも多くの試練に遭うことを知っているからです。私が主に仕える限り、悪魔は休ません。私は激しい戦いや、突然の攻撃に直面するでしょう。そして、過去に体験した勝利した戦いや得た安息ではなく、私はこれからの戦いのために天の力を必要とします。

私は戦いのために、充分に備えた兵士となりたいのです。そしてしその戦いに、始まるずっと前に、勝利しているのです。勝利は、訓練所で、訓練と鍛錬の内に与えられています。敵に襲撃されたとき、私はすべての武器が必要です。そして、その武器の補給は、私の心に隠された、力ある神の御言葉によって与えられます。その体験によって、次に悪魔に攻撃されたとき、私は必要な補給の予備があるとを確信できるのです。私は戦闘する前に、神とともに勝利しているです。

あなたは,今なお神さまがあなたを整えるべく働かれることを知る忠実な兵士ですか。もしそうなら、あなたには三つのことが求められています。

(一)あなたは御言葉を熱心に読むものであること。

御言葉を学ぶとき、神さまがどれほどあなたを愛するかを知るしょう。神さまがあなたを全く愛しておられる事が確信できなければ、やがてくる危機に対処できません。御言葉に飢え渇いて、主の愛に確信が持てるのです。

(二)忠実な祈りによって、神さまとの親しい交わりを深めること。

危機の際、私たちが主を呼び求めることを、神さまは願っておられます。しかし、苦境の時の祈りだけで足りません。私たちは時の善し悪しに関わらず、天の父を求めるべきです。私たちの信仰は状況によるものではありません。信仰は主との関係の成長から強められていくのです。

(三)神さまはあなたに耐える道なく試みを許されないことを信じるべきです。

大きな試練がきたら、あなたが強く立つか、それとも倒れてしまうかを心配することはありません。私たちの父は必要なときに恵みを下さいます。また、もし私たちが、近しい、また親しい関係を主と持っているなら、あなたが必要なとき、恵みを注ぎます。神さまは、今日、あなたを神の安息へと招いておられます。

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