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神の人になる

私は皆さんに神が大きく用いた三人の事、特に神が彼等の失敗を使ってどの様に導いたかを話したいと思います。 私達はしばしば人の成功話を話します。聖書が言っている成功はこれとは全く違うものです。神様がその時代の人々を導く為にく用いた人達は、苦しみ、悲しみ、苦悩し、失敗しましたが、神がそれらを用いたのも発見できす。 神 の人ヨブを考えてみて下さい。彼は根本的事を誤解していました。ヨブは自分が正しいと宣言しました。「私は人に悪いことをしたことがない。今まで、善き者 であった」。聖書を読んで行くと、何故彼の様なプライドを持った人を神が買っていたのか疑問に思える程です。ヨブは善人で、悪を行いませんでした。

「7人の女がひとりの男にすがりついて言う」

二種類の教会 預言者イザヤによれば、終わりの時代には二種類の「教会」が存在するであろうということですが、私はこの二種類の「教会」はすでに存在していると考えています。イザヤは、これら二種類の「教会」がそれぞれどのようなものであるかについて非常に明確な預言を語っており私たちがあらためてあれこれと考えを巡らす必要もないほどです。 イザヤ書の四章はまず、私が「赦しのみの教会」と呼んででいるものについての描写から始まっていますが、この個所は、簡潔ながらも、実に目も当てられないような状況が書き表わされているところです。 その日、7人の女がひとりの男にすがりついて言う。「私たちは自分のパンを食べ

「神に対する怒り」

私は、クリスチャンが神さまに対して怒りの思いを抱えていることほど危険なことはないと信じています。ところが、多くのクリスチャンに出会う中で、主に対するいらだちを抱えている人々が次第に増えつつあることにショックを覚えています。 このような人々はもちろん、誰もが自分がそういう思いを抱えていることを認めているというわけではありません。しかし、自分が意識してるとしないとにかかわらず、彼らは心の奥底で主に対する恨みを抱えているのです。彼らがそのような思いを抱えている理由、それは、神さまが自分の歩みや問題に関心を抱いて下さっていないということです。神さまは自分のことなど気にかけておられない

「恐れからの開放」

国々の経済が揺らされ、恐れが世界中に広がっています。そして今尚、その揺れが続き、私たちはイエス様の語った事を目撃しています。 「地上では、諸国の民が、不安に陥って悩み、人々は、その住む全てのところを襲おうとしている事を予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。」ルカ21:25~26 キリストは私たちに、「わたしにある希望が無ければ、文字通り、多くの人々は恐れの故に死ぬ。」と忠告しています。 しかし、イエスに従う人々、つまり、神が御自分の子らを守られるという約束を、信じる人々には、全ての恐れから栄光に満ちた解放があります。実のところ

「人生に行き詰まるとき」

詩篇38編のダビデの言葉を読むとき、この敬虔な正しい人が、完全に行き詰まっているのを見ます。彼は意気消沈して失意のどん底にあり、降りかかる苦難が彼のすべての力を奪ってしまっていました。 次の混乱しきった叫びを聞いてください。: 「「私はかがみ、深くうなだれ、一日中、嘆いて歩いています。私はしびれ、砕き尽くされ、心の乱れのためにうめいています。私の心はわななきにわななき、私の力は私を見捨て、目の光さえも、私にはなくなりました。しかし私には聞こえません。私は耳しいのよう。口を開かないおしのよう。まことに私は、耳が聞こえず、口で言い争わない人のようです」。(詩篇 38:6, 8, 10, 13-14

「神の栄光を見る事の効果」

真にイエスの弟子である人々は皆、神の栄光を見、又理解する事が可能であるという事を、聖書は明らかにしています。確かに私達の主は、御自分の栄光を熱心に捜し求める全ての人々に明らかにされます。更に、神の栄光の啓示は、これから来ようとしている危険の多い時代に向けて、彼の民を備えるであろうと、私は信じています。パウロはこの啓示が、「あなたがたを育成し、全ての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができる」のだと、はっきりと述べています。(使徒の働き20:32) あるクリスチャン達の考えとは正反対に、神の栄光とは、何らかの物理的な表現の事ではありません。それは、あなたを圧倒する

「私たちの神は、全てを修復することができる」

皆さんは(旧約)創世記の中で、神さまがアブラハムにお現れになった話を覚えていらっしゃると思います。この家長は樫の木の下に三人の男が突然現れたとき、熱い昼下がり、自分の天幕の入口に座っていました。アブラハムはこの人たちに会いに走って行き、食事の用意をし、彼らを迎えました。 会話の中で、主はアブラハムに妻のサラが居場所を聞き、そして神は驚くことを言いました。 「…、あなたの妻サラには男の子が生れているでしょう」(創世記18:10) サラは天幕の中て、その会話を聞いて、その話しに笑ってしまいました.。そんなことはあり得ない、と彼女は思ったからです。自分は子供をみごもる年齢からは離れてしまってい て

「苦痛を理解する必要はありません。

私達の郵送者名簿に名前を載せている親愛なるクリスチャン女性が ら、悲痛な手紙がきました。 「1972年に、私達はダウン症候群の息子を肺炎で亡くしました。その子はたったの17ヶ月でした。7年後の1979年、15歳の息子を亡くしました。裏庭で木登りをしていた時に感電死したのです。 そして現在、私達の24歳の息子は糖尿病です。私は癌で、化学療法を受けています。率直に伺います。「どうして 。」と神に訊ねることは罪でしょうか?神は私達の人間性を理解して下さるのでしょうか。 デービット牧師、神に対して少しの間でも怒ったことがおありですか。私にはあります。そしてそれは間違っているのも知っています

「勝利の祈りへの障害」

神の人々は、聖書全体を通して、常に祈るようにと命じられています。私達は、元気な時もそうでない時も、祈っていくのです。 又、全ての季節において祈ります。喜びと健康の時と同様に、落ち込んでいる時や病気の時にも。休息の時もと繁栄の時も、寂しさと 深い悲しみの時期にも。境遇や状態に関わらず、私達は絶えず祈っていくのです。 私は、全ての誠実なクリスチャンが祈る事を望むと信じます。しかし当然ながら、皆さん全てがその願いに従っているとは思えません。成熟したクリスチャンでさえ祈りを怠ける事があります。祈ったとしても、難しく、退屈なものとなって、すぐに興味を失うのです。

「地獄を揺るがす祈り」

ダニエル書が書かれたのは、イスラエルの民がバビロンの捕囚となっていた時期です。その書の6章に、ダニエルは、神に長く仕えた、八十の齢になっていました。この神の預言者であり、説教者であった彼は、仕えた二人のバビロン王-ネブカデネザルとその息子ベルシャツァルよりも生き、尚ダリヨス王に仕えていました。 働きの長年、ダニエルは常に祈る人であり、老後になってもそれを止めようとは思いませんでした。聖書はダニエルが燃え尽きたとか落胆していたとも、蓄えた小金で、黄昏の日々を田舎の別荘で悠悠自適に暮らしたとも書いていません。ダニエルにはその時期が人生の黄昏ではなく、逆に事が始まる時期でした。聖書は

「自分の霊的状態を感覚で判断してはならない。」

使徒パウロはテサロニケ人達へ、彼らが主の御前において喜ばしい歩みを学んだと奨励しました。彼は、 「あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私達から学んだ」 と言い、それから、激励を付け加えました。 「ますますそのように歩んでください。」(テサロニケ人への手紙Ⅰ4:1) ますますというのは、富む(増し加わる)ようにの意味です。パウロはこう言っているのです。「あなた方は正しい福音が語られたなかに留まったので、あなた方には確固とした基盤が築かれた。だから、あなた方は恵みの全ての業において、つまりあなたの信仰、知識、愛に富むようにならなければならない。」 パウロは、コリント人達へも

「疑い―神の最も嫌われる罪 」

私たちの犯す罪のうち、疑いは神さまが最も嫌う罪です。聖書の新旧約両方に、疑いは主を嘆かせ、神の怒りを誘い、苦痛を与えると記されています。その例を、神がご自分の民をパロの手から解放されたときの古代イスラエルに見ることができます。 詩篇の著者はこう嘆いています。 「 私たちは先祖と同じように罪を犯し、不義をなし、悪を行なった。私たちの先祖はエジプトにおいて、あなたの奇しいわざを悟らず、あなたの豊かな恵みを思い出さず、かえって、海のほとり、葦の海で、逆らった。」(詩篇106:6,7) 著者はここで懺悔(ざんげ)しています。彼が懺悔していたイスラエルの民が犯した悪しき罪とは何だったのでしょう。それは

「ふるいにかけられる過程」

イエスは、自らの死を迎える前の晩、弟子達と過越祭の晩餐をとる為に、食卓の席につきました。集まった人々は、聖餐の親密な時を共に過ごしました。そうして食事を終えると、キリストが厳粛な様子でこう言ったのです。「わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。」(ルカの福音書22:21)このような親しみにあふれた時に知るにしては、なんとひどい現実でしょうか。サタンはふてぶてしくも、イエスの愛弟子の一人、ユダの中に入り込んだのです。 その食卓では、もう一つの信じ難い事柄がすでに起こっていました。イエスは、自分の砕かれた体を象徴した ひとかけらのパンを取り、それをぶどう酒に浸し、ユダに差し出しました

「神の恵みをみだらなものにすり替えるということ」

「イエス・キリストのしもべであり、ヤコブの兄弟であるユダから、父なる神にあって愛され、イエス・キリストのために守られている、召された方々へ。どうか、あわれみと平安と愛が、あなたがたの上に、ますます豊かにされますように。愛する人々。私はあなたがたに、私たちがともに受けている救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしていましたが、聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。というのは、ある人々が、ひそかに忍び込んで来たからです。彼らは、このようなさばきに会うと昔から前もってしるされている人々で、不敬虔な者であり、私たちの神の恵みを放縦に変えて

「私たちは神のメッセージを聞き逃しています。」

2001年9月11日 火曜日、ニューヨークにあるワールドトレードセンターのツインタワーが破壊されました。5日後、 このメッセージを用意している時に、私はアパートの三十階にある書斎の窓から外を眺めました。大きな煙の雲が まだその廃墟からくすぶり出ていました。そして、それらの煙は瓦礫から出て、ハドソン川上を漂い、自由の女神の 上空を過ぎていました。 次の日曜日、タイムズ スクエア チャーチで私がこのメッセージを語ったちょうど前、そのひどい廃墟の光景を見て 私は涙を流しました。主に哀れみを請いました。愛する者を失い、悲しみにある家族への哀れみです。 生存者を発見することを望みながら

「角笛の警告は悟られなかった」

旧約聖書に登場する預言者のアモスは、明らかに、私達が生きる今の時代を語っています。この預言は今日の新聞見出しで報道されるようなことを語っています。事実アモスの預言は二重です。それは、アモスが生きた時代のイスラエルに対してと、今私達が生きるこの時代の教会についてです。 アモスは神を、今にもイスラエルに審判を下そうとしている「吠え猛る獅子」に例えています。 「獅子がほえる。だれが恐れないだろう。神である主が語られる。だれが預言しないでいられよう。」アモス3:8 「神はみずから、吠え猛る獅子をおこし、その餌食になるものを打とうとしている。そして、獅子が吠え猛ったとき、私は警告を与えなければならない」

「喜びの癒す力」

イザヤ書16章は神に裁かれる、高ぶった国を表しています。預言者イザヤはイスラエルの敵であるモアブについて預言しています。 「われわれはモアブの高ぶりのことを聞いた、その高ぶることは、はなはだしい。われわれはその誇と、高ぶりと、そのおごりとのことを聞いた、その自慢は偽りである。」イザヤ16:6 聖書の中で、モアブはある種類の国や人の象徴として使われています。その種類とは、神に背を向けた、そして御裁きの下に置かれる自分に頼ることです。聖書の中でそ のような国は ごとことく裁かれていますが、イザヤは単にその時の国々だけではなく、今に至る歴史の中の社会についても同時に預言しています。預言者イザヤは

「神の御手にふれ」 

ダニエルは宣べています。 「見よ、一つの手があって、わたしに触れたので、わたしは震えながらひざまずき、手をつく」ダニエル書10:10  ここで「触れた」と書かれたのは「激しく捕らえられた」の意味です。ダニエルは「御言葉が私に臨み、平伏した。御言葉が触れたので、私は神を求める切迫感があった。」とも言えます。 神が人の命に触れられる時、誰にでも同じ事が起きます。その人は平伏し、祈りの人となり、神を求ます。では神は何故、ある人だけに触れ、激しく臨むでしょうか。どうして、ある僕たちは神を 渇き求め、その他はそうではないのでしょう。 神に触れられた僕たちは、主なる神と全く親しく、天との関係が強められます

「命の川」

エゼキエルに驚くべき幻が与えられました。聖書は神の御手が大いなる高い山に彼を連れて行き「その姿は青銅の形のよう」エゼキエル40:3な人が預言者に現れたと記しています。それは使徒ヨハネがパトモス島で見た幻の人「その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのよう」黙示録1:15の描写と似たものです。 勿論、両方の聖句で記されている人はキリストです。「幻」の中で、その人はエゼキエルを神殿の門の前に移し、旅に連れ出しました。エゼキエルが体験した「幻」は、終わりの時に近づくに連れ、神の民が、キリストの肢体がどのようになっていくかを示したものです。エゼキエルは記しています。

「霊的戦いの戦利品」

「彼らは主の神殿を修理するために戦利品の一部を聖別した。」(歴代誌Ⅰ26:27) この聖句は、人生そのものを覆す深い真理を我々に教えています。それは戦ってのみ得られる「戦利品」のことです。そして、ひとたびこれらの「戦利品」を勝ち取ると、人々は神の宮を建て上げるために捧げたと聖書は記しています。 もし私達がこの聖句に秘められた力強い真理を悟るなら、我々の人生に激しい霊的戦いを、何故主がお許しになったかを理解できると、私は確信しています。多くのクリスチャンは、一旦救われたなら、苦しみは終わり、人生を安穏のうちに過ごせると思っています。しかし、そんな事はありません。しかし

不信仰を捨て

「イエスはそこを去って、郷里(ナザレー)に行かれたが … それを聞いた多くの人々は、驚いて言った、この人は、これらのことをどこで習ってきたのか。また、この人の授かった知恵はどうだろう。このような力あるわざがその手で行われているのは、どうしてか。 … こうして彼らはイエスにつまずいた。 … そして、そこでは力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった。そして、彼らの不信仰を驚き怪しまれた」。(マルコ6:1-3, 5-6) 前の5章では、イエス様は素晴らしい奇跡を行いました。悪霊に取り憑かれた人から悪魔の群れを追い出し

捨てられた人達への良き知らせ

ルカ15章は捨てられた「人達への福音」と呼ばれています。この箇所は落ちた、堕落した人達への神の言葉として長く見られました。この文はキリストを見出したが、失われた人、罪に囚われた人達、キリストから迷い出た人達へのメッセージです。 堕落した、捨てられているとはどんな事でしょうか。ルカの15章では、捨てられた人達とは教会や社会に落ちぶれ疎外された人達を示します。その自らの道徳的堕落によって神に捨てられたと思っている人達もいます。 この章はイエス様の教えを聞こうと罪人の群集の処から始まります。彼等の中にはローマの収税人、税吏、不正と結びついた役人がいます。収税人は売春婦、間男

神が来られる

私は、いまだ嘗てないほど、主がその民に働きかけると信じています。 聖書は、悪魔が、自分の時間が短いのを知って、大いなる怒りをもって来ると言っています。今、神の民には聖霊の注ぎが、神の御手が、五旬節より大きく必要です。 五旬節の時には、原爆の恐れはありませんでした。また、同性愛者の結婚の合法性を考える必要もありません。世界経済の崩壊を恐れる必要もありません。しかし今、終わりの時、もっと大きな聖霊の力が必要なのは明らかです。 真にイザヤの日の叫びが今の時代にも聞こえます。「どうか、あなたが天を裂いて下り、あなたの前に山々が震い動くように。…み名をあなたのあだにあらわし、もろもろの国をあなたの前に

あなたがたは、久しい以前からすでに教師となっているはず

ヘブル書の著者は言っています。「あなたがたは、久しい以前からすでに教師となっている」(へブル5:12)これはきつい言葉です。著者は誰に向けてこれを言っているのでしょうか。誰を叱責しているのでしょか。ヘブル書は聖書的真実をよく学んだ信徒達に宛てて書かれています。言い換えれば、油注がれた聖職者に学んでいる人達がこの書簡を読んでいるのです。 彼らはイエス・キリストが大祭司たる事、神の御前で彼らの為に取成して下さっている事を知っています。彼らは又、必要な時、御座の前に憚る事無く進み出て慈しみと恵みを受ける事を知っています。彼らは神の平安が彼らに在る事を教えられています。

David Wilkerson Newsletters

The Bountiful Servant

And God is able to make all grace abound toward you, that you, always having all sufficiency in all things, may have an abundance for every good work…. Now may he who supplies seed to the sower, and bread for food, supply and multiply the seed you have sown and increase the fruits of your

Fulfilling Your Destiny

“In Him also we have obtained an inheritance, being predestined according to the purpose of Him who works all things according to the counsel of His will, that we who first trusted in Christ should be to the praise of His glory” (Ephesians 1:11-12, NKJV, my emphasis). We have been predestined to a

God Is Faithful, Even When We Are Not

I know all about the restraining hand of the Lord. He allows his children to go only so far but no further. In my early days of ministry, he restrained me when I was ready to quit during times of awful discouragement. At times, I felt overwhelmed by all the financial responsibilities. I felt like a failure as a husband and father as well. I would get so low about my overwhelming obligations that I thought my faith would shatter completely.

The Power of the Hidden Man

After Jesus delivered the Sermon on the Mount, his listeners sat in awe. Scripture says, “The people were astonished at his teaching, for he taught them as one having authority, and not as the scribes” (Matthew 7:28-29, NKJV). The Greek word for authority in this verse means “with mastery, power, liberty; as one in control.” Jesus’ listeners were saying, in essence, “This man knows what he’s talking about.”

Don’t Lose Heart

His answer to your prayer is coming. Our ministry receives letters from many Christians who have somehow lost heart. These are followers of Christ who have truly been saved. They’ve tasted the mercy and goodness of the Lord and experienced joy, peace, hope and gladness of heart. Then something

Jesus Christ, the Only Way Out

In all our trials, we are to cling to the Savior. When Jesus said, “I am the way” (John 14:6, NKJV), he issued a powerful proclamation to his church. Tragically, we have not fully understood the power behind his words here. I believe if the church today truly grasped the simple statement that Jesus

Aggressive Kindness

The Holy Ministry of Reconciliation Most Christians I know are kind, loving, considerate, caring and helpful. I believe very few in the church think of themselves as unkind. I don’t think you can be a true Christian and be unkind. When we think of kind people, our image is of quiet, soft-spoken men

Disappointments Can Be Dangerous

Clinging to God’s Name in Our Anguish Every child of God suffers disappointments. At times we can feel totally defeated, despairing and dead inside because all our hopes, dreams and visions have gone wrong. We may hope for something, seeking God for it and waiting for it expectantly, but we never

The Nearness of God

He is never closer than in our trials I want to share with you two verses from Helen Spurrell’s translation of the original Hebrew text: “When designing pursuers approached me, who are far from thy law; then thou, O Jehovah, wast near, with all thy faithful commandments” (Psalm 119:150-151)

Who Told You You're Unworthy?

Listening to the Cross Instead of the Accuser Who told you that you’re unworthy, no good, useless, unusable to God? Who keeps reminding you that you’re weak, helpless, a total failure? Who told you that you’ll never measure up to God’s standard? We all know where this voice comes from. It’s the

Don’t Waste Your Afflictions

Know that He is Completing a Good Work in You “But I want you to know, brethren, that the things which happened to me have actually turned out for the furtherance of the gospel” (Philippians 1:12, NKJV). In this verse, Paul tells the Christians in Philippi not to worry about all the things they’d

The Redemptive Judgments of God

In Jeremiah 32, the prophet describes a dire scene. Jerusalem was surrounded by Nebuchadnezzar and the Chaldean army. Outside the city, the enemy was building large mounts to send their troops over the walls. Any Israelite who looked down on this scene was surely filled with a sense of doom

Confessing Christ

"Whosoever therefore shall confess me before men, him will I confess also before my Father which is in heaven. But whosoever shall deny me before men, him will I also deny before my Father which is in heaven” (Matthew 10:32-33). What does it mean to confess or deny Christ before men? The Greek word

Boldness to Enter God's Presence

“Having therefore, brethren, boldness to enter into the holiest by the blood of Jesus, by a new and living way, which he hath consecrated for us, through the veil…let us draw near with a true heart in full assurance of faith” (Hebrews 10:19–20, 22). There are two sides to Christ’s work at Calvary

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