「7人の女がひとりの男にすがりついて言う」

二種類の教会

預言者イザヤによれば、終わりの時代には二種類の「教会」が存在するであろうということですが、私はこの二種類の「教会」はすでに存在していると考えています。イザヤは、これら二種類の「教会」がそれぞれどのようなものであるかについて非常に明確な預言を語っており私たちがあらためてあれこれと考えを巡らす必要もないほどです。

イザヤ書の四章はまず、私が「赦しのみの教会」と呼んででいるものについての描写から始まっていますが、この個所は、簡潔ながらも、実に目も当てられないような状況が書き表わされているところです。

この個所は、聖書全体の中でも非常に誤った理解がなされている個所の一つです。注解書の中には、ここで語られていることが、アハズ王の治世の時代、敵が攻め入ってきて12万人を殺したことによって成就した、としているものもあります。しかし、このような解釈は単なる推測にしかすぎません。この個所が歴史上のある時期において実現したということを証明する証拠はありません。また、仮にこのできごとをアハズの時代に起こったこととして限定したとしても、7人の女が「ひとりの男にすがりついた」ということを示唆するような証拠は一切存在しません。

このようにいろいろと思いを巡らしていると、聖霊さまが語りかけて下さいました。私がこれからお語りすることは、私の知っている限りにおいて、恐らくどの注解にも書かれてはいないことだと思います。私の理解はこうです。このイザヤ書の四章は、全体にわたって、「教会」が主の再臨を前にしてどのようなものとなるかについての預言がなされている個所であり、終末の「教会」の姿について語られている預言の中でも非常に明確なものであり、他には解釈の施しようのないほどの個所です。

もちろん、私もおおくのクリスチャンと同様、私たちが終わりの時代を生きているということについては、いかなる疑いをはさむ者でもありません。この時代は、イエスさまの生涯、そして死と復活によって始められました。例えばペテロは、ペンテコステの日に、立ち上がって次のように語っています。「これは、預言者ヨエルによって語られた事です。 『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。・・・・』」(使徒2・16~17)ここでペテロは、「今はまさに終わりの時代だ。神の注がれた御霊がその証拠だ」と語っているのです。

同様に、使徒パウロもまた次のように語っています。「これらのことが彼らに起こってのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです」(第1コリント10・11)パウロも自ら終末の時代に生きる者であると理解していました。私にとっても、私たちがまさに終わりの時代の中でも最終の局面を歩んでいるのだということは全く疑う余地のないことです。

さて、黙示録の一章を開くと、そこにはヨハネが、イエスさまが七つの金の燭台の真ん中に立たれいるのを目にしているくだりが書かれています。ここでヨハネは、「・・・・・、

その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、・・・・・」(黙1・14~15)と語っています。

この光景を目にしたヨハネは、恐ろしさのあまり圧倒され、倒れてしまいます。ご存じのように、このヨハネは、かってイエスさまの胸に頭をもたれかけたこともある人物です。そのヨハネがここでは、そのような状態のイエスさまを見てすっかりショックを受けているのです。

ここで七つの燭台が七つの教会を表わしているものであるということは、聖書を読めば明らかです。七つの教会とはすなわち、終わりの時代におけるクリスチャン全体の集合を表わしているものであり、私たちが定冠詞つきで(一くくりとして)「教会」と呼びならわしているものです。イエスさまが歩き回っておられるのはこの燭台の間です。イエスさまは七つの教会を隅々まで見通しながら、歩き回っておられるのです。

イザヤの語っている、花嫁になろうとしている七人の娘もまた、明らかに終わりの時代の教会の多くに見られる特徴の一つの型を表わしています。その黙示録に見られる七つの教会については、ディスペンセーション主義に立つ人々ならばおそらく、それぞれが教会史上の七つの時代を象徴しているものであると考えることでしょう。しかし、この七つの教会に見られる特徴がいずれも、どの時代の教会であれ常に持ち合わせてきたものであるということは一目瞭然です。スミルナやフィラデルフィアのように、主から賞賛の言葉を与えられている「祝福された」教会ですら、一方では神さまの忌み嫌われる性質を持ってもいるということが見て取れると思います。

さて、ここで花嫁になろうとしている七人の娘たちは、一人の男になんとかすがりつこうとしています。私は、この一人の男というのはキリストのことであると考えていますが、この花嫁たちにとっては、その男を愛するということはどうでもいいこととなっています。娘たちの頭の中にあることはただ一つ、自分たちへのそしりが取り除かれるように、ということだけです。

「私たちは自分たちのパンを食べ、自分たちの着物を着ます。私たちをあなたの名で呼ばれるようにし、私たちへのそしりを除いてください」(一節)

このところを読むと、女たちが次のように言いながら一人の男に近づいている情景が目に浮かぶようです。「食べ物なんて何もいらないわ。自分たちで何とかするから。着るものもいらないわ。自分たちでできるから」

聖書のこの個所がどのようなことを語っているのか理解するにあたっては、信仰的にとりたてて深い者である必要もないでしょう結局のところ,「罪は国民をはずかしめる」(箴言14・34)ものであるということです。なるほど彼女ら七人の女はキリストの花嫁になりたいと願ってはいますが、しかし、それはしょせん自分の側の条件を満たすためだけに過ぎず、親しい関係や愛情、あるいは献身などのない、単なる取り決めを欲しがっているだけに過ぎません。

ここで、この女性たちにかんして七という数字が用いられていることに注目してみましょう。先ほどの黙示録の話しと重ね合わせてみるならば、このような人々はどのような教会であれあらゆる教会に存在しているのだ、ということに気づかされます。このような人々っは、確かにキリストという「ひとりの男にすがりつ」こうとはしますが、それはあくまでも自らが罪なる性質の者であるがゆえに起こってくる罪の意識や、それに対する自責の念から単に逃れたいがためであり、決してキリストというお方と親しい関係に入りたいという思いを持とうとすることはありません。彼らは単に赦しを受けたいだけあり、罪のそしりを取り除いてもらいたいと思っているだけなのです。このような人々の群を、私は「許しのみの教会」と呼んでいます。

もちろん、ここでまず理解しておいていただきたいことは、私とて信仰によって義と認められるということを信じる者であるということです。私たちが救われるのはただイエス・キリストを信じることによってのみです。それによって私たちは、キリストが十字架上で成し遂げて下さったわざにより正しいものとされるのであり、また、罪悪感や恐れ、罪責感などから解放された歩みをなしていくことができるのです。これこそまさに「福音」と言う言葉の持つ素晴らしい意味です。

しかし、仮にイエスさまに対して望むことがただそれだけで終わってしまっていて、例えばイエスさまとの親しい関係の中に入れられたいとは思わない、天からのパンであるイエスさまをいただいて生きていきたいとは思わない、あるいは、私たちを隅々まで見通され罪を見出されるイエスさまの、その熱いまなざしを受けたくはない、などと考えているとすればどうでしょうか。赦されることだけがただ、私たちの心の中の関心事となってしまいます。

少し前のことになりますが、私は何かの集会でご奉仕させていただくために、ある町に滞在していました。そこでたまたま大きなドームのようなものの前を通りかかったのですが、折しもクリスチャンのロックコンサートが行われるということで、そこにはポスターその他の案内が大きく掲げられていました。私は少し立ち止まり、そのコンサートのため機材の搬入に忙しい若者たちを眺めていたのですが、そこで私は信じられないものを目にしました。その若者たちのうちの何人かが着ているTシャツには、「罪悪感なんてXXXXしちまえ!」などという、人前で口にするのもはばかられるような言葉を含んだメッセージがプリントされていたのです。

私はその言葉を引用することすらできません。いずれにせよ、その若者たちはいわゆるクリスチャンと呼ばれる人々でした。しかし、そんな彼らが求めているものは、明らかに、罪悪感を振り払ってもらうということだったのです。今日、牧師や伝道者の中には「赦しのみの」説教しか語らない人々が多くなっています。それしか語らないのです。そういった説教者は講壇で涙を流しながら次のように語ります。「さあ、出てきて下さい。イエスさまを受け入れましょう。もはや罪悪感や恐れにさいなまれることのない、罪の思いに心を責め立てられることのない人生を楽しむのです。ただ信じ、告白するだけで、キリストの花嫁とされるのです。そうすれば、自分の歩きたいように歩き、話したいように話すことができるのです」

もちろん、私は、人は律法によって救われるなどと考えてはいません。しかし、律法には律法の目的というものがあります。律法は私たちの前に立てられている鏡であり、神さまが私たちに対して命じておられること、求めておられることを映し出しています。その鏡によって、自分がそれらを満たすことのできないものであることを知るとき、私たちはイエスさまの元へと導かれていくのです。私はただここで、そのような「赦しのみの」説教を耳にすることがない自分たちにも神の導きがあるようにと願うばかりです。

また、多くの教会では、聖書の語るみことばを十分間の、まったく罪というものを指摘することのないスキットに替えてしまっていたりもします。そこには、きよさについての教えもなければ、この世から切り離されなければならないという教えもなく、また、きよめについて何も語らないばかりか、罪を捨て去るためにどのようにすればいいかについて語られることもありません。そういった教会の指導者たちは、しかし次のように自分たちを正当化しようとします。「最近は、福音といっても耳の痛い話しや難しい話は誰も聞きたがりませんからねえ。私たちはまあ、こういうやっかいな時代でも何とかうまくやっていってもらえるようにと、みなさんの必要としているものを提供しているだけですよ」

しかし、聖書はそういった教会に集う人々に対して、「・・・・・・、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、 ・・・・・・」(第2テモテ4・3)と語っています。これに対して、そのような教会に集う人々は次のように言っていることになります。「イエスさま、別にあなたに養っていただく必要はありませんよ。自分の食べるパンくらい自分で用意できます。私たちには私たちの福音がありますからね」

いまや教会は、アメリカ中いたるところで、これと大差ないことを教えています。陳腐で、「綿菓子」のような、「気分の良くなる」福音を語っているのです。そのような教会や集会は何千人もの人々で大にぎわいですがその人といえば、これまで罪の告白の祈りをしたことなど、単に「信じます!」という祈りを後に繰り返して言ったに過ぎないような人々ばかりです。しかし聖書は、信じることなら悪霊でさえする、と語っています。それだけではありません。悪霊は神について考えるだけで恐れにうち震えさえするとまで書かれています。

そのような集会に集う人々の中には、これまで、自分を捨てて十字架を負うようにと教え導かれたことのある人、すなわち、自我に完全に死に、神さまのよしとされないものに完全に死ぬようにと教え導かれたことのある人などほとんどいないでしょう。彼らは主から与えられる重荷など願ってはいません。自らの民の罪を思って涙を流すこともありません。神さまが罪にまみれた人々にどれほど心を痛めておられるかを思うこともなく、ただこの終わりの時代にあって妥協してしまっているのです。

その代わりにこれらの人々は言います。「私たちは自分たちのパンを食べ、・・・・・」(イザヤ4・1)彼らは、天から下ってくるパン、すなわち十字架につけられ、復活し、父なる神の右の座に着かれたイエス・キリストなど求めてはいません。イエスさまは私たちを他のさまざま悪しきものから切り離すパンであり、私たちをきよめと純潔、自己否定へと導くパンです。「自分のパンは自分で用意します」と彼らは言います。しかし、その用意するパンはたいてい、人を甘やかしてだめにする福音であり、それによって罪を叱責されたり、罪が示されて良心の呵責へと導かれるなどということは決してありません。

聖書は、そのようなパンは汚れていると語っています。預言者ホセアはそのようなパンを次のように呼んでいます。「・・・・・、彼らのパンは喪中のパンのようで、すべてこれを食べる者は汚れた者になる。彼らのパンは彼ら自身のためだけであって、主の宮に持ち込むことはできない。」(ホセア9・4)

しかし、神のまことの家、すなわち聖なる残された者の「教会」は、そのような人間の作ったパンには全くかかわりを持ちません。たとえ聖書の言葉がちりばめてあっていかにもきちんとした宗教であるかのように装ってはいても、そのような思想はたいてい、しょせんは一般大衆受けのする心理学に過ぎないものです。この「教会」に属する人々は、そんなことくらい百も承知です。そのような考え方は確かに耳ざわりのいいものではありますが、それによって人々が満たされることなどありません。

「・・・・・、自分たちの着物を着ます」(イザヤ4・1)「赦しのみの教会」は次のように語ります。「聞いて下さい、主よ。あなたは私たちに服を与えて下さらなくてもけっこうです。自分の着るものくらい自分で用意します」

こういった人が身につけるような義の衣は存在しません。聖さを求めるよう教えられることもなく、罪を犯していてもとがめられることもないけど「否定的なもの」など何一つとしてないからです。また、この世から切り離されることも一切なく、すべてを捨てるなどということもなく、主人に忠実に従うなどということもありません。彼らはただ「自分の着物くらい自分の好きなものを着る」と言うだけです。

これらの、花嫁になろうとしている娘たちには、夫の権威に服従したいという思いは全くありません。夫と一つの屋根の下に住むことすら願い下げです。また、夫の必要としていることが何であるかについても、全く関心をいだいてはいません。夫の心を知りたいと思ってもいなければ、その心配事を気にすることもありません。彼女たちの心はただ自分自身のことで一杯であり、ただ自分へのそしりさえ取り去られればそれでいいと思っているのです。

ですから、この娘たちは夫とはできるだけ接触を避けようとします。もしかすると共に時間を過ごすのは一週間のうちの一時間だけなのかもしれません。そのような関係の中で、お互いに対する親しみや愛情、人間関係や服従などといったものは生まれてくるのでしょうか。そういうことはまずないでしょう。ならば、夫に対して愛情を持ってつき従っていくことなど起こりうるでしょうか。これもあり得ません。それでは、夫のいるところで共に何時間も時間を過ごそうとか、二人だけの時間を作って、夫の考えていることを聞かせてもらおうなどど願うものでしょうか。これもないでしょう。彼女たちは自分の時間の大半を、スポーツやテレビ、映画その他、あらゆる種類の楽しみなど「他の恋人たち」と共に過ごすのです。

このようなクリスチャンたちは、例外なく自己中心的な福音へと向かっていくものです。先日も私たちの教会に、南部の大きな町から一人の人が訪ねて来られたのですが、礼拝が始まる前に私のところに来られ、次のように言われました。「ウイルカソン先生、私はつい最近自分の教会を出てきたばかりなんです。その教会では「素晴らしいリバイバル」が起こっていると思われる教会に、わざわざはるばる代表団を送るということまでしまして。やがて代表として出かけていった人々はみな燃やされて戻って来たんですが、私の心の中ではどうも何かしっくりこないものがありまして。それで自分はこの『新しいこと』に加わることはできないと思って出てきたんです」

「教えて下さい。私の教会ではいったい何が起こっているんでしょうか。どうすればそれを見きわめることができるんでしょうか。どうして牧師はイエスさまと親しく交わろうとしないんでしょうか。教会員の中に神のみこころを理解している人がいるように思われないのはなぜなんでしょうか。どうしていきなりのように『外からの』リバイバルを持ち込まないといけないんでしょうか」

言うまでもなく、あるものを見きわめたり、何かについて導きを受けたりすること、あるいは、なにが正しいことでなにが間違っていることか、なにが聖くて混じりけのないものであるかを知ることは、イエスさまとの親しい交わりの中にあって初めて与えられるものです。キリストと親しい交わりにありさえすれば、私たちは堅く立つことができ、さまざまな教えの波風が吹き荒れても、いちいち振り回されずに済むのです。にもかかわらず、現実には愚かなことに、そのような見きわめが行われないまま物事が進められています。これは神の手によるのではない、人間の手によるパンであり、神の心を悲しませるものです。

さて、それでは次に、イザヤが語っているもう一方の教会についての話しに移りましょう。「その日、主の若枝は、麗しく、栄光に輝き、地の実は、イスラエルののがれた者の威光と飾りになる」(イザヤ4・2)

ここで枝と言われているのはどのような者のことでしょうか。旧約聖書では、枝というものがやがて来るべき者として取り上げられている場合、それはどの箇所においても、栄光の主であるイエス・キリストのことを表わしています。

ここでのイザヤの言葉によれば、終わりの時代には、キリストが、麗しく、栄光に輝くお方として、そして威光と飾りとして、ご自分の姿を現される「教会」が存在するということです。この「教会」に属する人々がキリストに従う動機は、単に自らの罪ゆえのそしりを取り除いてもらいたいなどというものではありません。この人々は、自分たちの目に麗しく栄光に満ちておられるお方、このうえないほど素晴らしいお方を熱心に慕い求める者たちなのです。

現在この地上には、キリストだけを熱心に慕い求める残された者たちの「教会」が存在します。この人々は数は非常に少なく、おそらくは私たちがふだんから「教会」とみなしているものの十分の一程度の人々であることでしょう。私は、この終末の時代にあって神さまに喜んでいただくことのできる教会は、必ずしも何千人もの信徒を抱える教会である必要はないと考えています。むしろ、今日そのような巨大教会で起こっていることの多くは、神のみこころを現しているものであるとは言えません。

そうです。主のみこころは、ただイエスさまがすべての中心に置かれている教会の中にあります。そのような教会では、あらゆるものが十字架の教えに基づいており、キリストのご臨在とご性質を中心として建て上げられています。神のみこころは、御子を愛する教会、すなわち人々がすべてのものをキリストに向けている教会に現されるのです。

このような人々こそまさに、イザヤが「イスラエルののがれた者」(同節)としている人々です。イザヤは彼らについて次のように語っています。「主が、さばきの霊と焼き尽くす霊によって、シオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めるとき……」(四節)

神さまはこの終わりの時代に、ご自分の御霊をこの世に送られました。それは罪や神にふさわしくないものを正すためでした。しかしながら、神の燃えあがるみことば、罪を裁き、人を罪と直面させるみことばを耳にするとき、多くの者はバビロンすなわち荒野へと逃れていき、そこでさまざまなもののとりことなってしまうのです。

後に残るのはごくわずかな人々だけです。イザヤはさらにこのところで、神さまがこれら残されたわずかな人々を「さばきの霊と焼き尽くす霊」(同節)によって導き出されると語っています。

確かに、終末の「教会」のうちやがて神の栄光に満たされることとなるものは、単なる赦しをいただいているだけの教会にまさっています。その教会は聖よい教会であり、神のさばきのみことばである、すべてのものを焼き尽くす炎によって洗いきよめられた教会です。聖さと混じりけのない心、これがその教会に属する人々の特徴です。イザヤはさらに言葉を続けています。「シオンに残された者・・・・・は、聖と呼ばれるようになる。みなエルサレムでいのちの書にしるされた者である」(三節)

ここでこのように思われる人もあるかもしれません。「ちょっと待って下さい、ウイルカソン先生。この聖書箇所は明らかに古代イスラエルのことについて語っているだけです。エルサレムやシオンなどと名前がつけられているということは、この預言は歴史上のある特定の時間におけるエルサレムのユダヤ人に対するものではないんでしょうか」

しかし、それは違います。この箇所にはそれ以上の意味があるのです。聖書がいたるところで次のように語っているということについてよく考えてみましょう。「しかし、上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です」(ガラテヤ4・26)「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです」(へブル12・22)

これは、新しい天からのエルサレムです。これは信仰の目によって望むことのできる町であり、すべてのクリスチャンの母なる町です。「わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレム」(黙示録3・12)これこそまさに、預言者イザヤが語っていることであり、すなわち、天を想う残された人々の群のことを表わしています。主はこれらの人々を導かれ、すべてを焼き尽くすご自分の炎の中を通されるのです。

主イエス・キリストを信じることによって、私たちはシオンに生まれる者となります。そこには私たちの名前が書かれてあります。そればかりか、自分の心を完全にイエスさまに明け渡す者、主と親しく交わり主に連なる者となる者は、シオンにおいて神の息子、娘として知られているのです。

イザヤがこの箇所において終末の時代における「教会」について触れていると述べるにあたり、そのことを表す最も有力な証拠となるものが次の五節に見られます。「主は、シオンの山のすべての場所とその会合の上に、昼は雲、夜は煙と燃える火の輝きを創造される。それはすべての栄光の上に、おおいとなり、仮庵となり、」(イザヤ4・5)ここでイザヤは、神さまがご自分の民を守るために新たな柱と雲とを創造されるのを見ています。

イザヤがこのことを預言したときには、荒野に現れた柱と雲とはすでに消え去ってしまっていました。これは言うまでもないことです。従って、これは明らかに、まだ起こっていないこと、すなわち新しいことを指しているのだということになります。

雲というものは、方向や慰めなどといったもの、すなわち、あらゆる悪や恐怖から守られたり、導きを受けたりすることに関係します。従ってこれは、終末における神の聖なる残された民が、明確な導きを与えられるということを意味しています。この民は混乱させられることはありません。周りにあるものがみなそれぞれ異なった方向に飛び去って行こうとしたり、ばらばらになろうとしても、これらの人々には雲と火の柱とが共にあって導きを与えてくれるのです。

かってイスラエルには神殿がただ一つだけありました。また、雲と火の柱とがそれぞれ一つずつありました。しかし今日、私たちはすべての者が聖霊の住まわれる神殿とされており、神さまは私たちすべてに一人残らず雲と火の柱とを与えて下さっています。悔い改めた者一人一人、聖なる群の一つ一つを、昼は御霊の雲が、夜は御霊の炎の柱が導いて下さっているのです。

言葉を換えて言うなら、神さまは次のように語っておられると言うことができます。「私はおまえがどのような状況にあろうと、すべてを理解している。どんなに最悪と思われるような嵐の中にあるとしても、私がはっきりと導きを与える。私は荒野においてイスラエルの民に対してなしたように、おまえにも火の柱を与えて導く」

しかしながら、今日アメリカでは、教会を混乱の嵐が吹き荒れています。そしてそれによって、多くの人々が混乱させられています。何が本物であるのかを見きわめるすべもほとんどなく、誤った教えや愚かなわざ、肉の行いが氾濫しています。

私たちの伝道の働きにおいても、アメリカ中から相談の電話や手紙をいただきます。「いったいどうなっているのでしょう。私にはわかりません。牧師が奇妙な教えを持ち込んできたことによって、教会が二つに分裂しようとしているんです。これは神さまからのものなのでしょうか。 教えて下さい。もはや何を信じていいのかわからないんです」

最近、デンバーで教会を牧会している息子のゲアリーが電話をかけてきました。「お父さん、最近ある集会に行ったんだけど、とにかく何もかも収拾がつかなくなっちゃってね。集会を導いていた人たちもなんだかまんな恐がっちゃて。結局、その人たちも、立ち上がって「こうしましょう。この状況はとにかくイエスさまに収めていただくのです」なんて言わないといけないほどにまでなっちゃたんだ」

息子は続けました。「最初はそのリーダーたちもみんな、これは聖霊の働きです、なんて言ってたんだよ。それが結局、「この状況はとにかくイエスさまにおまかせしましょう」だなんてね。でも、何もかもイエスさまにお委ねしないといけなくなっちゃたんだとしたら、その指導者たちはいったいそれまで何をしていなんだろうね」

愛するみなさん、この手のものには本当にぞっとさせられます。その集会は最初から他の何ものでもない、イエスさまに目を向けているっべきだったのです。

私のところにはよく人が来て次のように言います。「ウイルカソン先生、私たちと一緒に来て下さい。何々教会で素晴らしいリバイバルが始まったんです。すごいですよ。集まっている人がバタバタと倒れていくんです」

私はもちろん、しるしというものの存在に対して反対する者ではありません。私はキャサリン・クールマンの下で五年間働いていましたが、そこで集会に来られていた人々が聖霊の力のもとで倒れていくのを何度となく見てきました。それは実に神への畏れに満たされるような光景でした。そこにはまやかしなどまったくなく、ただ御霊のまことの働きが現されていました。

神の素晴らしい働きが今どこそこで起こっていると言われたら、私はまずは次のように尋ねることにしています。「そこでは罪を焼き尽くす炎というものも含めて、きちんと神のことばが語られていますか? 人々は自らの罪を認めた上で倒れているのですか?集まってきている人々の叫びは、この世の霊が追い払われることを願い求めるものとなっていますか?」

「結果として人々は聖くされていますか? 罪を悪とする内容のことがらが力強く語られていますか?その働きによって人々はイエスさまのもとへと導かれていますか?すべてのことがキリストを焦点としてなされていますか?キリストがすべてとなっていますか?失われている魂に対して新たなあわれみの思いが起こされていますか?罪を常習的に犯していた人に悔い改めが起こっていますか?」

こういったことこそが聖霊さまの働きというものです。聖霊さまはこの罪の世を叱責するために来られた、義とさばきの方です。ですから、聖霊さまが下って来られているなどと口にする限りは、このようなことが起こっているはずなのです。さもなくば、答えは明らかです。肉の働きです。

主はこの混乱の時代にあってまどわされることのない民をお持ちです。これらの人々は、イエスさまに自らを明け渡した人々です。すなわち、イエスさまとの愛の内にある人々であり、聖霊さまからの指導に対して心の開かれた人々であり、この時代の不正から離れて歩んでいる人々です。したがって、これらの人々は聖霊さまの進まれる道や働きをよく理解しています。彼らは何が聖で何が混じりのないものであるかを知っており、何が肉によるもので、何が愚かなものであるかを知っています。そして、いったん雲が動き出せばどこにでも従っていく人々です。

「・・・・・ それはすべての栄光の上に、おおいとなり、・・・・・」(五節)この箇所は原語のヘブル語では「すべえのものの上には栄光のおおいがある」という解釈ができます。これは本質的には「これら残された民一人ひとり、さらにこれら残された民一人ひとり、さらにこれら聖なる残された者からなるさまざまな集まりすべての上には、逃れの場所があり、毛布があり、覆いがある。そしてこの覆いこそ神の栄光である」という内容を意味しています。

ここで、中には、栄光の雲が荒野で幕屋を覆っていたという出エジプト40章の記事を思い起こす人もあるかもしれません。「そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の天幕にはいることができなかった。雲がその上にとどまり主の栄光が幕屋に満ちていたからである」(出エジプト40・34~35)

また、ソロモンが神殿を捧げたときに起こったことについて見ておきましょう。「ソロモンが祈り終えると、火が天から下って来て、全焼のいけにえと、数々のいけにえとを焼き尽くした。そして、主の栄光がこの宮に満ちた。祭司たちは主の宮にはいることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである」(第2歴代誌7・1、2)

愛するみなさん。幕屋が整えられたとき、すなわち、幕屋が神のご計画通り完成され備えられたときは必ず、神の栄光が下ってきてそれらを満たしたのです。

ここで、もう一度イザヤの四章一説を見て見ましょう。主は私たちに約束して下さっています。 終わりの時代、新たな栄光が現され残された民からなる主の教会はそれによって覆われることになるのです。神のその栄光は一人ひとりの心を満たし、一つひとつの家を覆って下さいます。そして私たちは神の栄光という円蓋のもとで礼拝を捧げるのです。

ここでの栄光とはどのようなものなのでしょうか。これはもちろん、神の御子なるイエス・キリストの臨在が現されることに他なりません。イエスさまには父なる神の栄光が満ち満ちているのです。

「その日、主の若枝は、麗しく、栄光に輝き、・・・・・」(イザヤ4・2)「・・・・・御子は神の栄光の輝き、・・・・・」(ヘブル1・3)すなわち、キリストがご自分を私たちに現して下さるとき、その栄光はそれ以上の明るさはないというほどにまで光り輝くのです。

ここで「現す」という意味を現している言葉には「手に入れる」という意味があります。したがってすなわち、ある場所がイエスさまのご臨在に満たされるなら、それはまさに現実そのものとなり、はっきりと感じられるものとなり、私たちは信仰の手をもってそのご臨在に触れ、信仰の目をもってそれを見ることができるのです。それはまるで私たちが呼吸をしているこの空気のように、現実として感じられるものとなるのです。

このようにイエスさまのご臨在が非常に力強く、全てを圧倒する形で現されているようなリバイバル、そしてそのご臨在が、実に美しく栄光に満ちたものとして感じられるようなリバイバルこそ、私が本当に味わいたいと願っているリバイバルです。このようなリバイバルにあっては、その「実」(すなわち、救われる人々)も、そのイエスさまのご臨在ゆえにこの上もないほどすばらしいもの(イザヤ4・2参照)となるのです。私たちはすでにその始まりとでも呼べるものを、このタイムズ・スクエア教会の礼拝において見せていただいています。人々がぞくぞくと講壇のところに出てきて、主のみまえで涙を流し、砕かれてきています。

そのような中でもしも人々が倒れるのであれば、私はその人々に聖霊による救いの確信を与えられて倒されるものであって欲しいと思います。私がそれら倒されていく人々に見ていただきたい幻は、イエスさまについての新たな幻です。また、それらの人々に体験していただきたいしるしは、その倒された床から、キリストにあって新しく生まれ変わった者として立ち上がる、ということです。

そのような中にあっては笑いも起こってくることでしょう。罪を焼き尽くす炎がその働きをなし、すべての罪が取り去られてしまう中にあっては、心も引き裂かれるほどの苦しみが存在することでしょう。しかし、いったんそれが完了してしまったならば、私たちは一晩中笑い続けることができてもおかしくはないと思われます。そのようなときには、主からの喜びをそのまま心に受け入れるのが一番です。

私は主の栄光が離れてしまっているような教会には行きたいとは思いません。詩篇の作者は、契約の箱がペリシテ人に捉えられてしまったときのことを次のように歌っています。「御力をとりこに、御栄えを敵の手に、ゆだねられた」(詩篇78・61)また、祭司エリの義理の娘が子どもを産むと、その子は「栄光がイスラエルから去った」(第一サムエル4・21)という意味からイ・カボデと名づけられました。

「イエスさまのご臨在が感じられないくらいなら、私は生きていたくはありません。イエスさまは私を導いて下さるお方であり、私の雲であり火の柱なのですから」私たちの証はこのようでなければなりません。

なぜ今日、神の栄光というものがそこまで重要なのでしょうか。神の御臨在に伴う栄光とは、そもそも何のためのものなのでしょうか。

その答えは、同じくイザヤ書四章の中にあります。「昼は暑さを避ける陰となり、あらしと雨を防ぐ避け所と隠れ家になるからだ」(イザヤ4・6)

まず、神が臨まれる際に注がれる栄光によって、私たちは暑さから逃れる隠れ場を得ることができます。ヘブル語で「暑さ」というとき、その言葉は「土地が乾ききっていること、荒れ果てていること、あるいは不毛であること」などの意味を表します。これは罪に満ちた社会に対する神のさばきの一つの型です。

ヨハネの黙示録の16章では、さばきの御使いのうち四人目の御使いが力を与えられます。「・・・・・、火で人々を焼くことを許された。こうして、人々は激しい炎熱によって焼かれた。しかも、彼らは、これらの災害を支配する権威を持つ神の御名に対してけがしごとを言い、」(黙示録16・8~9)

今やまさに、神さまはこの熱を起こそうとしておられます。そしてその熱はますます熱くされ、すべてのものにさばきをもたらします。そのような中にあって、神の栄光は私たちを覆われます。「昼は暑さを避ける陰となり、・・・・・」(イザヤ4・6)私たちはその暑さを感じることはありません。むしろ、イエスさまの御翼の陰の涼しい中で休ませていただけるのです。

また、二番目には、神の栄光は私たちの守りであり、私たちを覆うものです。「・・・・・あらしと雨を防ぐ避け所と隠れ家になるからだ」(6節)私たちはすでに雨を目にしています。私たちの目にしている雨は、聖霊さまの注がれているものだけではありません。神のさばきの雨もそうです。今やまさに、嵐の雲が沸き上がってきています。しかし、素晴らしいことに、神の聖なる残された民の「教会」には覆いが与えられるのです。

おそらくは次のような言葉が返ってくることでしょう。「『栄光の教会』だなんて言われても、私にはそんな教会はありません。目につくのはどれも人間中心の教会ばかりです。暑さや嵐から守ってくれる覆いだなんて、いったいどこのあるのでしょうか」

私たちの心の中に住まわれる神の栄光こそが私たちの住まいです。私たちの心の中にイエスさまがいて下さるならば、そしてご自分を現して下さっているならば、私たちはすでに完全な覆いのもとに置かれているのです。私たちが心と目をイエスさまに向け、神のみことばが私たちの罪なる部分をあらわにし、それを正して下さるようにと心をゆだねていくならば、イエスさまは私たちにご自分を現して下さるのです。なぜなら、神さまはすでに約束してくださっているからです。

「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします」(ヨハネ14・21)

神さまは語っておられます。「私はおまえとともにいる。どんな状況が悪くなっても関係ない。私はおまえを助け、すべてを乗り越えさせる。私は決しておまえを一人にしたり見捨てはしない」アーメン

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