「人生に行き詰まるとき」
詩篇38編のダビデの言葉を読むとき、この敬虔な正しい人が、完全に行き詰まっているのを見ます。彼は意気消沈して失意のどん底にあり、降りかかる苦難が彼のすべての力を奪ってしまっていました。 次の混乱しきった叫びを聞いてください。:
「「私はかがみ、深くうなだれ、一日中、嘆いて歩いています。私はしびれ、砕き尽くされ、心の乱れのためにうめいています。私の心はわななきにわななき、私の力は私を見捨て、目の光さえも、私にはなくなりました。しかし私には聞こえません。私は耳しいのよう。口を開かないおしのよう。まことに私は、耳が聞こえず、口で言い争わない人のようです」。(詩篇 38:6, 8, 10, 13-14 新改訳、以下同様)
この詩篇を読むとき、ダビデが失意の中で落ち込んでいる様(さま)がわかります。おそらく彼にとって最も理解し難かったのは、なぜこれほどに自分が落ち込んでいるのかだったでしょう。彼は主を渇き求め、自らの心を日々祈りの中で注ぎ出していました。彼は神の御言葉を敬い、主の栄光を称える詩篇も作っていました。でも今は落ち込みの中て、 彼にできることと言えば、「主よ、もう一歩も先に進めません。なぜこのようなことが起こっているのかさえわからないのです!」と叫ぶことでした。
現代の落ち込んでいるクリスチャンたち同様、ダビデは、なぜ自分がこれほどまでに空しさを感じ、心砕かれてしまっているのか、その原因を探ろうとしました。彼はおそらく、自分が人生の中で犯してきたすべての過ち、罪、愚かな行いを回想したことでしょう。そしてある時には、彼はこう考えたに違いありません。「おお主よ、私のすべての向こう見ずな行ないが、望みがないほどまでに私を傷つけ、このような状態にしてしまったのでしょうか。」
ついに、ダビデは、神が自分を懲らしめておられるのだと結論付けました。彼は叫びました。
「主よ。あなたの大きな怒りで私を責めないでください。あなたの激しい憤りで私を懲らしめないでください。あなたの矢が私の中に突き刺さり、あなたの手が私の上に激しく下って来ました。あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、私の罪のため私の骨には健全なところがありません。私の咎が、私の頭を越え、重荷のように、私には重すぎるからです。」(同1-4節)
ここで注意すべきことは、ダビデはこの詩篇で、単に自分自身の状態について書いているだけではないのです。彼は、イエスを心から愛するすべての者たちが、人生のある時点に直面することについて書いています。彼は、疫病のような、落胆の霊から邪悪な攻撃を受けることについて語っているのです。
このような類の落胆の霊は、地獄から直接やってきます。そして、すべての献身した信者が、その突然予期せぬ体験に圧倒されてしまいます。それは、そのクリスチャン本人のせいでも、主が送ったものでもありません。その攻撃は、信仰者の側の罪とか、失敗とは、 ほとんど無関係です。
簡単に言うと、落胆の霊は、神の選民に対する悪魔の最も強力な武器です。そしてよく悪魔はそれを使って、「自分は神の聖なる基準に達していないために神の怒りを招いてしまったのだ」、と私たちに思い込ませようとします。しかし、使徒パウロは、悪魔のわなの餌食にならないようにと警告しています。
「これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。」(コリント人への手紙第二 2:11)
パウロはこう言っているのです。「あなた方は、自分の落ち込みの実体を見極めなさい。それは悪魔の武器であり、あなたが自分自身に疑心暗鬼になることは、悪魔がその矢筒から取り出して、あなたに向けて放つ矢に他ならない。悪魔は、誘惑によってはあなたをイエスに背を向けさせれれないと知っている。だから、ひどい嘘を使って攻め、あなたに、「自分は主に仕えられる者には決してなれない」と思わせようしている。悪魔はあなたを落ち込ませて、自分からタオルを投げたくなるように望んでいるのだ。」
弱さ、痛み、砕かれる思い、問題、心配、嘆き...。これらすべてがダビデの魂を落ち込ませました。彼は渇き、空しさをおぼえ、迷い、まるで、それまでの何年間、何も学んでなかったように感じていました。
「...目の光さえも、私にはなくなりました」。(詩篇 38:10)
ダビデはこう言っているのです。「私は霊的な悟りを失った。ビジョンと主の啓示は私を離れた。私はかつてのように主に近づくことができない。」
ダビデがどのように感じたか、私はよくわかります。私は、一回の集会で何千人もキリストの元に来る、伝道集会を開き、多くの麻薬やアルコール中毒者を、イエスにある解放へと導く手助けをしてきました。私の人生は、そういう豊かな祝福に満ちたものです。しかし、そんな事があっても、落胆によく打ちのめされました。私はこう考えてしまいます。「主よ、私の人生はまったくの無駄です。あなたのために何一つ成し遂げられませんでした。」
これこそ、落胆の悪霊の働きです。偉大な霊的勝利を収めた瞬間に、悪魔の力の標的となるのです。
この邪悪な霊によって打ちのめされ、ダビデは神の臨在の中で押し黙るしかありませんでした。彼はこう言っています。
「しかし私には聞こえません。私は耳しいのよう。口を開かないおしのよう。まことに私は、耳が聞こえず、口で言い争わない人のようです。」(13-14 節)
ヘブル語での、この最後の節の意味は、「答えあるいは議論することがもう残されていない者」という意味です。ダビデこう言っているのです。「主よ、私は全くも落ち込み、落胆して、あなたに手を上げ(訳注:祈る)られません。私は祈れず、混乱しきって、話すらできません。空しく、渇ききっています。私には何も言うことが残されていません。」
ダビデの試練は特別なものでしょうか。私は、主に大きく用いられた敬虔な人々の伝記をたくさん読みましたが、そういった人々全てが、これと同じような大きな落胆と闘っていました。
偉大な説教者C. H. スポルジョンは、その力強い説教によって数多くの人々をキリストに導きました。しかし彼は、鬱(うつ)病でひどく苦しんでいました。彼はしばしば、自分は人生で何も成し遂げられなかったと感じました。彼はある時は「私はイギリスで最も陰険な心の持ち主だ」と嘆きました。また、よく彼は庭に出て、神に手を上げこう叫びました。「私はこれまで、今ほどあなたを求めたことはありませんでした。それでも私の魂は、こんなにうなたれています。なぜでしょうか。」
ダビデは、落胆の攻撃に耐える、義なる者の叫びを代弁しています。
「私はつまずき倒れそうであり、私の痛みはいつも私の前にあります」。(17節)
ここで「つまずく」の原語の意味は落ちると意味ですから、ダビデはこう言っているのです。「私にはできません、主よ。全く行き詰りです。もう倒れそうです!」
私たちは自分の失敗についてこう感じていると、神にすべてを話せます。また、私たちは、主に罪や、愚かな間違いを犯した絶望感についても語れます。しかし、神が自分を見捨てると、絶対に考えてはいけません。これは神に対する深刻な非難ですから、主はそれを軽く扱われるません。この類の非難に主が どんな反応を即座にしたか、民数記に書います。
「彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中でがまんができなくなり、民は神とモーセに逆らって言った。『なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。』そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ」。(民数記 21:4-6)
私の愛する天の父が、燃える蛇をご自身の民に送られ、その蛇にかまれ彼らが死んだと、聖書が語るくだりを読むと、私は次のような、非常に明確なメッセージを無視することはできません。「神はご自身の選民のうちに、そのような不信仰をお許しにはならない。」私たちの尊き主が、私たちのためにすべてなしてくださいました。それなのに、私たちが「主は私たちを顧みなかった」と言うことは、主の心を最も痛ませる非難です。私たちは、特に困難にぶつかっているときには、このような不信仰に気をつけなければなりません。
ダビデは、自分の信仰を守り通した人として、私たちの模範です。人生のどん底にいるときにも、ダビデは不信仰にのみこまれませんでした。彼はこう叫びました。
「それは、主よ、私があなたを待ち望んでいるからです。わが神、主よ。あなたが答えてくださいますように。」(詩篇 38:15)
もし、あなたがこのような落胆の悪霊の攻撃に耐えているのなら、次の3つのことをお勧めします。
その攻撃を自分の知恵で逃れようとしてはいけません。あなたが対決している悪霊は、あなたなど敵ではありません。この戦いは、あなたの人間としての能力や、物理的力をはるかに超えたものです。また、単に友人 に相談しで解決したり、本やセミナー、カウンセラーを通しても、これを克服できません。これは霊的次元での戦いであり、したがって、霊において戦われなくてはなりません。
落胆しているとき、ダビデはなぜ自分がそこまで落ち込んでいるのかわかりませんでした。彼はこう尋ねています。
「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。...」(詩篇 42:5)
しかし、彼の疑問は神に対してではありません。実際に、彼は主に対する深い渇きでその詩篇を始めています。
「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。」(1~2節)
その落胆の中で、ダビデは主からの啓示を求めて叫びました。彼はこう言っていたのです。「神よ。今ほどにあなたを愛している時はありませんでした。私は水を求めてあえぐ鹿のように、あなたを渇き求めています。それなのになぜ、私はこんなに落ち込んでいるのでしょうか。なぜ私は、自分ではどうすることもできない、こ んな気鬱さに襲われているのでしょうか。」
もちろん、ダビデは自らの罪のために絶望や落ち込む事もありました。彼は、神の律法に逆らい、戦力を数え、その高ぶりによって主から懲らしめられました。さらに、バテシェバと姦淫した上、その夫を殺害させたときにも、彼は神のむちによ って痛みつけられました。そして、そのゆえに家族にもたらされることになったその罪の裁きに、彼の心は砕かれました。
同じように、今のクリスチャンの多くも、自分の罪のために落胆しています。ある人たちは、聖霊が彼らを勝利に導きこうとしているのに、それを拒み、落ち込んでいます。彼ら が「肉の道」を選んだからです。「肉の道」は必ず苦しみと落胆へと行き着くものです。
しかし、私は、今語るのはここにいる悔い改めた信仰者、心を尽くして神を求める人たちに向けてです。この誠実な信者たちは、これとは違う落胆に捕らわれています。こういった類の落胆は、突然に、どこからともなく、理由なしに襲いかかります。ですから、この落胆は彼らを全く驚かせてしまうのです。
もしこれがあなたに当てはまるなら、あなたは攻撃にさらされていることは明らかです。悪魔は、あなたを打ちのめそうと落胆の霊を送り込んでいるのです。悪魔にはそうすべき理由があるからです。
皆さん、落胆は、霊を追い求める聖徒に対する、悪魔の攻撃のうち、最も破壊力のある道具です。それは、神の選民を攻撃する悪魔好みの武器で、何世紀も使われてきたものです。 唯一なる神について真剣になったその日から、キリストを完全に知ろうと心に決めた時から、悪魔はあなたを落胆させようと努めているのです。悪魔は、あなたが日々、神の御言葉を深く掘り下げて調べるようになっているのを見てきました。あなたが変わり、成長し、この世的なことをすべて克服するのを見てきました。そのため、彼はあなたを激しい攻撃の標的に定めたのです。ですから、その攻撃がいづれ来ることは間違いないのです。
今は、あなたは教会で大声で主をほめたたえてこう言うでしょう。「今日は最高の日だ。」しかし明日、どうなるか気をつけてください。悪魔は、彼の最も強力な武器-落胆-を使ってあなたを落ち込ませようとするでしょう。
けれども、攻撃がきたときに、それが特別なことのように思わないでください。神は、このような激しい試みをすべての聖徒に許されます。ペテロ書はこう書いています。
「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく」(1ペテロ4:12)
落胆は、神の民が何世紀もの間耐えてきた試練なのです。
あなたが落胆の悪霊に攻撃されているとき、祈りたいとは思わないでしょう。しかしそれでも、隠れた場所に行って、イエスの御臨在の中にとどまってください。絶望の中でどう祈ったらよいかと心配する必要はありません。この時こそ、神の御霊があなたの内で働かれる時なのです。あなたを穴から引き出すのは、主の働きなのです。
あなたが主のところに行くとき、主に対して正直であってください。主に、あなたがどれほど弱く、無力であるのか打ち明けてください。主にこう言ってください。「イエス様、私は渇ききって、もう力が残っていません。私をこの落ち込みから抜け出させるのはあなたしかいません。」
そんなに落ち込んでいても、主は私たちにとても忍耐強くあってくださいます。主は私たちが激しく、熱心な祈りを捧げることを期待されません。主は私たちの状態を知っておられ、私たちに哀れんでくださいます。ですから、主の臨在にあって、聖霊が御働きを、あなたの内に成すと信頼してください。あなたがどれほど落ち込もうが関係ありません。主は決してあなたを見捨ません。
私たちは、主の期待に反し、失敗する都度に聖霊が鳥のように飛び去ってしまう、と考えてしまいます。あるピューリタンの聖人たちも、このように教えました。彼らは、クリスチャンが御霊を悲しませたら、御霊はそのクリスチャンからしばらく離れてしまう、と信じていました。
私は、この教理の理解も、受容も絶対にできません。どうして私が最も必要な時に、神の聖霊が私を見捨られるのでしょうか。もし聖霊が、私が失敗し、深く落胆する毎(ごと)に私から離れるとしたら、どうして聖霊が私の慰め主となりえますか。そうだとしたら、まったく慰めにはなりません。それどころか、私を悪魔の支配に捨て置くことです。
同様に、もし聖霊が私の魂を聖める方なら、私が失敗する度に私の人生を出たり入ったりするなら、どのようにその働きを成しえるでしょうか。罪を示す御霊の臨在なしに、どうして私は自分の罪を見出せますか。もし私を導き、道を示してくださる聖霊が共におられないなら、私はどのようにして、自分の変えるべきことを知りえますか。
イエスは私たちにこう約束してくださっています。
「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。...わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」(ヨハネ14:16, 18)
悪魔から落胆の霊が、あなたの人生に重苦しく圧しかかれば、あなたはひどく混乱し祈りの言葉をつぶやくことさえできなくなるかもしれません。しかし、たとえ一言も発せられなくても、霊においてあなたはイエス様に語れるでしょう。そっと主に言って下さい。「主よ、助けてください。この攻撃は私には激しすぎます。私には、信仰を持ってここに座っているのみです。あなたの御霊が私をここから救い出してくださると信じます。」
「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)
私は、人生のある時に、落胆の霊から特に激しく攻撃されたことがあります。それは、私がそれまでで最もイエス様に近く歩んでいたときに起こりました。私は日々熱心に祈り、主の御前で自分の心を注ぎ出していました。主の御言葉を調べるのに 時間も費やし、新旧両方の聖書をむさぼり読んでいました。私は主とのすばらしい交わりを楽しんでいましたし、自分の多くの祈りが答えられるのを見てきました。自分で知る限り、神の完全な御旨にあって、主がら言われたことはすべて行っていました。
しかしある朝、次の週の説教を準備していたとき、何かが私を打ちました。私はひどい絶望感に圧倒されました。それはどこからともなく来て、私の上に激しく覆いかぶさってきたのです。そしてそれは、はっきりした理由もなく起こりました。
どれほど私が努力しても、その思いを振り切ることはできませんでした。聖書を開いて机に座り、説教の準備を続けようとしました。しかし私は何もすることができませんでした。突然、自分に主からの真のメッセージをまとめる能力があるのだろうか、という疑いに襲われました。私の頭は次のような恐ろしい考えでいっぱいになりました。「おまえは 『古い人』と『新しい人』の概念をまだわがっていない。罪があるのに、『罪に死ぬこと』など理解できようか。おまえのような者がどうして神の御言葉を説くことができるのか。」
私は、メッセージを見出そうと3時間座っていました。しかし、心に何も浮かびませんでした。その午前の中ごろには、聖書のすべての言葉が意味不明に思えました。私の心は混乱し、私の魂は鈍くなり、主から何も聞けない状態になってしまいました。
私は絶望の底に沈んで、こう考えました。「私は神の御言葉をまったくわかっていない。それなのに毎週毎週、説教をし続けている。これだけの年月を経て、私はまだ聖書を理解していない。私の光は消えてしまった!」
私は、教会の人々に自分が与えられるものは何もないという思いに至りました。そして、聖書を閉じ、書斎を離れました。
家の周囲を散歩しても、私の落胆は大きくなるばかりでした。私はまず、どうしてこんなことが私に起きているのか考えましたが、全くわかりません。私には金銭面のトラブル も、家族の問題もなく、体は好調でした。自分が知る限り、罪を犯していたわけでもありませんでした。私には、自分がこんなに感じる理由は何一つありません。
終(つい)に、私は祈り部屋に行き、床に座りました。私には、主に言うべき言葉が見つかりません。その代わり、自分の霊から主に叫びました。「主よ、私にはどうすればいいのか分かりません。私は落ち込 んて、あなたに近づくことさえできません。しかし、今よりあなたを愛していた時はなかったこともわかっています。何故でしょう。神様、お助けください。」
悪魔が落胆の霊と共に来て、あなたに次から次へと嘘を吹き込みます。悪魔は、あなたの結婚、家族、友人、召し、主にある歩みについて偽ります。そして 、あなたが行ってきた罪、失敗、愚かな行い、すべてをあなたの心の中で再現し始めます。悪魔がそれを終えたとき、あなたは「私は絶望です!」と叫ぶでしょう。
これがまさしく悪魔が私にしたことでした。祈りの中で、私は半時ほど、悪魔による嘘の攻撃にさらされていました。そんな時、神が、ささやく声で私の霊に語りかけてくださったのはでした。主は、愛と憐れみに満ちた言葉を語りかけてくださいました。「デイビッド、あなたは深く愛されている。恐れてはいけない。わたしの手があなたの上にある。あなたは激しい攻撃に あっているが、恐れるな。この戦いにあなた自身の力は必要ない。わたしが、あなたに必要なすべてを持っているからだ。」
聖霊がそのときにまず、イエスの尊い約束をすべて思い出させます。聖霊はそのとおり私にもしました。聖霊は何十もの約束で私の魂を満たしました。 それは、私が聖書からのものと知っているものでした。そしてさらに私に約束してくださいました。「あなたは終わっていない。あなたは知らないが、あなたの人生はまだ始まってもいない。最良のもの がまだあなたの行く先にある。」
私の魂は私のうちで高く舞い上がりました。私は立ち上がり、考えました。「どうしてこのような落胆に我慢しなければならないのか。それは神からのものではない!」
これこそ聖霊の業です。聖霊は敵の偽りをあばき、天からの励ましをもたらしてくださるのです。
多くのクリスチャンは、神に責められると思いつつ、日々神の御前に出ます。これが主をどれほど嘆かせているしょうか。私たちは、祈りに行くとき、私たちの愛する父から良き言葉を聞く と期待して下さい。しかし、そういうクリスチャンはめったにいません。私も長年そうでした。祈りの部屋に入りつつも私は主から叱責されると覚悟していましたが、感謝なことに、主はより良い道を教えてくださ ったのです。
一方で、聖なる叱責について全く触れない教派があります。彼らはポジティブな、陽気なメッセージだけを語りたいため、罪についてはほとんど語りません。そうして彼らは、キリスト と新約聖書の記者が語った、すべての罪を悟らせ、いのちを与える戒めを無視します。それらの教会は、愛と憐れみ、恵みの福音を宣べていると主張していますが、悲しいことに、彼らは神の恵みを乱用し、それを罪を犯すライセンスにしてしまっています。
私は、、そんな人々にこのメッセージを語っていないと認識しています。むしろ私は、主を愛する方法のひとつとして罪を避け、勝利するクリスチャンに向けて語ってい るのです。絶えずキリストを求めて飢え渇いているために、キリストとの親密な関係を楽しんでいる人々に語っているのです。もしこれがあなたてあって、そして落ち込んでいるのなら、どうかあなたが罪 を容認して、こんなことなったとは思わないでください。それが起きているのは、あなたがイエスを愛しているためなのです。
どうか確信してください。主を待ち望む者は、その栄光に満ちた約束を受け取ることができるのです。
「神を待ち望む者のために、このようにしてくださる神は、あなた以外にとこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。」(イザヤ 64:4)
「まさしく、聖書に書いてあるとおりです。『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。」(コリント人への手紙第一 2:9~10)
コリント人への手紙から、2箇所を詳しく見てみましょう。
1. 「神を愛する者のために、神の備えてくださったもの。」(9 節)
悪魔はあなたを攻撃して、偽りと、人を落胆させるような言葉で攻め立てることができます。しかしあなたが主を待ち望めば、その攻撃の最中に聖霊があなたのところに来て、悪魔のすべての偽りを追い出 します。どのようにでしょうか。聖霊は、神があなたに備えてくださったすべての良いことを啓示して、偽りを退かせます。なぜならあなたが神を愛しているからです。
私たちの主は、主を愛する子一人ひとりに、すばらしいご計画を持っておられます。そして、神の子たちに向くどんな悪魔の攻撃も、その計画を変えらません。神はまた、私たちが今直面している悲しみや戦い、痛みを知っておられます。しかし、主は、ご自身が私たちの人生に備え られた栄光に満ちた計画も知っておられます。主は、私たちが受けべき啓示や、用いられることで感じる喜び、私たちがやがて見る実 り、私たちが得る喜びや平安を知っておられます。主は主を愛するすべての者に良い知らせをもっておられます。
2. 「神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。」(10 節)
主は、ご自身が私たちのために用意された良いことを、私たちに知らせたいと望んでおられます。そして主の御霊は、その良い知らせを運ぶメッセンジャーなのです。聖霊は、神の啓示によって、うなだれている私たちの霊に翼を与えてくださるのです。そして、私たちは悪魔のわなを逃れ、鷲のように飛ぶことができるのです。
次のイザヤによるすばらしい知らせに耳を傾けてください。
「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ 40:28~31)
聖霊の働きは、私たちを力づけることです。私たちのすることは、御父が与えられた任務を遂行するために遣わされた聖霊に、ただより頼むことだけです。
たとえ落胆にしている状態にあっても、今すぐにあなたの祈りの部屋に行き、主の御前に静まってください。話す力があなたになくても、霊において主に近づくことができます。主にこの祈りを祈ってください。
「主よ、私はあなたの御霊が私にとどまってくださっていることを知っています。そしてあなたが、私を慰め、強め、キリストの御心を私に啓示してくださるために聖霊を遣わしてくださったことを知っています。ですから、聖霊様、私は今単純な、子供のような信仰であなたの方に向き直ります。あなたの慰めの言葉を、私の心に語りかけてください。私にはもう力は残されていません。あなたが私を引き上げ、導いてくださ い。」
キリストの御霊は、あなたを欺かれたままにはしません。聖霊は、神は、これからの人生に備えられた良いことをがあなた見せてくださるでしょう。しかしあなたはそこで、聖霊があなたに語りかけられることを すべて信じるべきなのです。
あなたはよろけず、勝利を収め、試練から脱け出します。。なぜならあなたの信仰は金のように試されたからです。そしてあなたは、主ご自身があなたにされた約束の ことごとく実現されるのを見るでしょう。