「神の栄光を見る事の効果」
真にイエスの弟子である人々は皆、神の栄光を見、又理解する事が可能であるという事を、聖書は明らかにしています。確かに私達の主は、御自分の栄光を熱心に捜し求める全ての人々に明らかにされます。更に、神の栄光の啓示は、これから来ようとしている危険の多い時代に向けて、彼の民を備えるであろうと、私は信じています。パウロはこの啓示が、「あなたがたを育成し、全ての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができる」のだと、はっきりと述べています。(使徒の働き20:32)
あるクリスチャン達の考えとは正反対に、神の栄光とは、何らかの物理的な表現の事ではありません。それは、あなたを圧倒する、恍惚とした感情の事ではありませんし、突然現れる超自然的なオーラや、天使の光のような類のものでもありません。簡単に言えば、神の栄光とは、彼の本性と属性の啓示の事なのです。
主御自身が、自らの栄光を、聖書においてこのように定義されています。ですから私達が、「主よ。あなたの栄光をお見せ下さい。」と祈る時、私達は実のところ、「父よ。あなたがどなたであるのかを、私達に明らかにして下さい。」と祈っているのです。そして、もし主が、御自分の栄光の啓示を、私達に本当に与えて下さったのなら、それは、神が私達にどのように知られたいのか、という事の啓示なのです。
モーセの神の栄光に面した経験が、この事実を証明します。主は、イスラエルの神がどなたであるのか完全に明らかにすることなく、イスラエルを救い出す為にモーセを送られました。主は単に、「行きなさい。そして、わたしはあるというものが、あなたを送ったと言いなさい。」と彼に言われただけで、「わたしはある」とはだれであるのか、という説明はお与えになりませんでした。
私は、これが故にモーセは、「主よ、どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」(出エジプト記33:18)と叫んだのだと思います。モーセは、わたしはある、がだれであるのかを知る事、つまり、神の本性と御性質が、一体何であるのかを知る事に強い飢え渇きを持っていたのです。
そして主は、モーセの祈りに答えられました。はじめに、彼はモーセに、岩の裂け目に身を隠すよう指示されました。ところが、モーセが神の栄光が現れるのを待っていても、稲妻も雷鳴も、地の揺れも、見る事はありませんでした。それどころか、神の栄光は、偽りのない啓示によって、彼を訪れたのです。
「主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者・・・」(出エジプト記34:6-7)
さて、神は、心に目的を持たれている時にだけ、御自分の力や栄光を明らかにされます。では、ここでの彼の目的は何だったのでしょうか?それはもちろん、モーセに恍惚な一時を与える事ではありません。又は彼に、遺産、つまり、自分の子供や孫達に伝える事ができる何かを与える事、でもありませんでした。
全く違います。神は、それを見ることによってモーセが変えられるように、御自分の栄光を見る事を許されたのです!そして今日、その同じ事が、私達にとっても言えます。神は、神の栄光を見る事で、私達が神御自身の似姿そのものへと変えられていくように、その栄光を私達に明らかにされるのです!
今日、イエス・キリストが、神がどのような方であるのかを表す、確かな姿です。私達の主が人になられた時というのは、天の父のあわれみ、恵み、まこと、又、神に赦す準備ができている事を完全に表す時だったのです。神は、御自分の本性と御性質の全てを、イエスのうちに包まれました。そして、現在私達に与えられるあらゆる神の栄光の啓示は、私達をキリストのかたちへと変えて行くものなのです!
使徒パウロは、神の栄光を見る事の目的と効果を、よく理解していました。彼はそれを、見る者を変える、つまり、キリストの全ての弟子達一人一人の人生に大変革をもたらす力、として理解していたのです。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、主の栄光を鏡に映すように見ながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(コリント人への第二の手紙3:18)
パウロは私達にこう言っているのです。「あなたがいったん、この神の栄光の啓示、つまり、神の愛、あわれみ、恵み、我慢強さ、そして、赦そうとされている事の啓示を受け取ったのなら、聖霊は絶える事無く、神の本性と御性質のより多くの側面に、あなたの目を開かせて下さる事でしょう。あなたは、神があなたに知って欲しいと望むその方法で、始終増え続ける神の啓示を得て行くのです。」
それからパウロは、いっそう強い口調でこう言います。「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、あなたがたが知ることができますように。」(エペソ人への手紙1:17-18)
愛する兄弟姉妹。神は私達にこう伝えたいのです。「モーセはわたしの栄光を理解した。今わたしはあなたがたに、それを理解して欲しい。わたしは、私の御霊によってあなたがたの目を開き、わたしが誰であるのかを、あなたがたに見せたい。わたしは、単に怒りと裁きの神であるわけではない。わたしの本性は愛なのだから!」
「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなた方が満たされますように。」(エペソ人への手紙3:17-19)
パウロは、私達にこう言っているのです。「この神の栄光の啓示を、あなたがたにとって、それは真に迫ったものとさせようではありませんか。あなたがたが、それに深く根ざし、又、それを身につけるようになる為です。あなたがたの内で、キリストの栄光の幻が突如現れるその時まで、それを捜し、それを学び、それを求め、それを自らの人生において自分のものにする事を続けなさい!彼の栄光の啓示を捜し求めながら、みことばの内にとどまるにつれて、あなたがたは変えられて行き、そして又、栄光から栄光へと、変えられ続けて行くのです!」
「教会により、またイエス・キリストにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。」(21節)
モーセがこの神の栄光の啓示、つまり、神が良い方で、愛情深く、面倒見が良く、やさしく寛大であるという事を知った時、彼はすぐさまひざまずき、神をあがめました。「モーセは急いで地にひざまずき、伏し拝んだ。」(出エジプト記34:8)
神の本性の啓示は、この男を圧倒したのです。傲慢で強情な人々や、偶像崇拝者、又、御自分を深く悲しませているような人々も含めた自身の子供達に対して、神がどれほどあわれみ深く、辛抱強いかを、モーセは見ました。彼はこの啓示によって、たいへん強く心を動かされた為に、岩の影から走り出し、地に伏して拝んだのです!
一つ重要なのは、モーセが伏し拝んだ事に触れているのは、これまででこの時が初めてだという事です。私達は、この神の栄光の啓示より前に、祈り、とりなしをし、泣いてイスラエルの為に神に嘆願し、神と向かい合って話をするモーセを見ます。紅海の勝利の側に立ち、モーセが主の賛美を歌うのを聞きます。マラの苦い水の所で、主に訴える彼の声を、又はレフィディムで、水を供給しない彼を人々が石で打ち殺そうとした時の、彼の神への必死の叫びを聞く事もあるのです。しかし、「モーセが伏し拝んだ」ということばを読むのは、これが初めてです。
私は、この節が今日の教会についての多くを語っていると思います。それは、クリスチャンが、真に伏し拝む事無くしても、精を出して祈る事はできるという事なのです。確かに、祈り、又はとりなしの戦士でありながら、神の崇拝者でない事はありえるわけです。あなたは、未だ救われていない自分の子供達の為に嘆願し、教会全体で必要な物事について祈り、清くあり、そして、神の重荷を捜し求める事に極めて従順でいる事はできます。それは、たとえあなたが一度たりとも、真に神をあがめる事がないとしてもです!
さて。私は、あがめるという事が何を意味するのか、という多くの定義に、さらに付け加えをしたくはありません。もうすでに、崇拝の様々な技法についての本が、多すぎるほどにあるのですから。けれど、手短に言えばこうです。崇拝は学べるものではありません!それは自然発生的な突発、つまり、神の啓示と、彼の信じられないほどの私達への愛によって、圧倒された心が起こす、一つの行動の事なのです。
崇拝とは、感謝の念に対する反応です。それは私達が、自らの全ての失敗と過ちの為に神の怒りを招き、自らの罪によってずっと昔に滅ぼされていても当然だった事を認め、それにもかかわらず神が、「わたしはそれでもあなたがたを愛している!」という、力強い啓示を持って私達のもとへ来てくださった事を、理解するところにあるのです。
この時点でモーセは、もはや罪深いイスラエルの為に嘆願してはいませんでした。又彼は、主に指導を求めていたのでもありません。救いのみわざを叫び求めていたのでもなければ、力や知恵を求めていたのでもありません。彼は神の栄光の啓示に驚嘆していたのです!
モーセは、イスラエルに関する望みがたくさんあったわけではないにも関わらず、神をあがめる事ができました。彼は人々が、元の罪ある生活に戻る事を決意していた事、イスラエルから持って来た金の偶像を隠していた事を、知っていました。たとえモーセが、彼らの金の仔牛への偶像礼拝を赦してくれるようにと、神を説得していたとしても、今となっては彼はおそらく、「一体私はどうやって、この人々を団結させる事ができるだろうか?神は後どれくらいの間、彼らの隠れた情欲と不平を、耐え忍んで下さるだろう?彼の忍耐は、いつ尽きてしまうのだろうか?」と思ったに違いありません。
ここでは、神のイスラエルの民に対する感情よりも、モ一セがイスラ工ルのために嘆願することの方が、より同情心があるように思えるかもしれません。しかし本当は、神にはこの人々を滅びさせるつもりは全くなかったのです。彼はすでに、彼らの為の約束の全てを、心に持っておられたのですから。
そうです。これはモーセへの「あわれみを試すテスト」だったのです。主は御自分のしもべに、こう訊ねられていたのです。「あなたはどうやってわたしを、その人々に言い表すつもりなのだろうか?裁きだけに満ち満ちた、復讐に燃えた神としてだろうか?いや。わたしは、あわれみ深く、我慢強く、いつでも私の人々を赦す用意ができている。」
ここに啓示が現れたのです!そしてそれは、モーセを安心させました。彼はまだ伏し拝んでいた間に、確かに、神が明らかにしてこられた栄光を求め、自分のものにし始めたのです。「神のあわれみが私達を切り抜けさせて下さる!神は我慢強く、そして、私達を赦して下さるのだ!これはなんという栄光だ!なんという安心感!そしてなんという希望であろう!」
直ちにモーセは祈り始めました。「主よ。あなたは何千もの人々の咎と罪を赦して下さると言われました。ところで、ここにその何千という民が御前におります。私達は傲慢で、強情で、あわれみを必要としております。ですから主よ。どうか私達に、あわれみをお授け下さい。私達の多くの罪をお赦し下さない!」(出エジプト記34:9参照)この節は、神の栄光の啓示が、崇拝には不可欠な一部分だという事を、間違いようもく証明するものです!
神の栄光の啓示が、私達の崇拝の源であるべきです。私達は常に、彼の栄光を求めるべきなのです。又、こう証言しながら。「主よ。私はあなたが聖なる、義なる方であり、罪に目をつむる方ではない事を知っております。けれども私は、あなたの栄光を見ました。そしてあなたが、私を滅ぼそうと躍起になる方ではない事を知っております。」
「あなたは、苦悶の中にいる私を咎める事をなさいません。それどころかあなたは、あなたがどれほど私に対し愛情深く、我慢強い方であるのかを見せて下さいます。私は拒絶されるに値する者である事を知っております。数多くの失敗を重ね、完全に退けられて当然な者です。しかしながらあなたは、御自身あわれみ深く、親切で心やさしいという事を、私に明らかにして下さいます。」
ミニストリ―に携わってきた年月、私は時々、向かってくる敵によって圧倒された事があります。それらの時、私は背に当てられる鞭打ちのような主によるしつけを感 じました。私は特にある時期、あらゆる面で中傷された事を思い出します。牧師達は「デイビッド。君について疑わしい事をいくつか聞いているんだが、本当かい?君に関するこれらの事柄は、悪魔からのものなのだろうか。それとも、神が君に語りかけようとしているのだろうか?」と訊ねてきました。
この質問だけでさえ私の気分を害したものです!しばらくして、私はすっかりその感情的な痛みの為に押し潰されてしまいました。進行し続ける戦いから、次第に私は、肉体的に疲れ果てるようになり、そしてある時点で、教会に行って説教をする事に耐えられなくなってしまったのです。
ある朝私の妻は、書斎の椅子に座っていた私を、文字通り、立ち上がらせなければなりませんでした。教会までの道のりの半分まで来た時、私は彼女に、もうこれ以上は続けられない、と言いました。礼拝中、私は自分がいかさま師だと思われているのではないかと心配して、人の顔を見る事ができなかったのです。私は、最後にはこう叫びました。「主よ。このようなめに遭わなければいけないほど何か私はしたのでしょうか?私の罪はどこにあるのですか?」
そんなある日の事、神は私を、エレミヤのこの祈りへと導かれました。「主よ。御怒りによらず、ただ公義によって、私を懲らしてください。そうでないと、私は無に帰してしまうでしょう。」(エレミヤ書10:24)
これらのエレミヤのことばは、厳しい試練の時期を通して、私の日々の祈りになりました。「主よ。もしもそうなさらなければならないのでしたら、私を懲らしめ、裁いて下さい。でもどうか、御怒りによってはそれをなさらないで下さい!もしあと一言でも、御怒りに満ちたみことばを聞いたなら、私は潰れてしまいます。私は無に帰してしまいます。どうか私を、ちりにまで落ちぶれさせないで下さい、主よ。私はすでに、十分落ち込んでいるのですから!」
答えられました。「デイビッド。もしわたしがあなたを懲らしめようとするのなら、それは、わたしがあなたを愛しているからそうするのだよ。この試練は、わたしの裁きとは何の関わりもない。わたしはあなたに対してあわれみ深く、寛大で、愛情深く、我慢強い。さぁ、静かにそこに立ち、わたしの栄光を見なさい!」この、彼の栄光を知ることによって、私は完全な安らぎに到ることができたのです。神は全ての側面において、私の汚名を晴らして下さいました。
愛する兄弟姉妹、一度あなたが、この神の栄光の啓示を得たのなら、あなたはもう二度と神が怒りを持ってあなたに懲らしめを与えても、恐れる必要はなくなります。彼は御自分のムチを、そのやさしく愛情深い御手の中に持たれているのです。彼は私達をしつけられますが、寛大な、深い同情の内においてのみ、それをなされます。彼は決して私達を傷付けませんし、退けられる事もありません。これは、モーセがそうであったように、崇拝をする中で、私達の心を和らがせるのではないでしょうか?
その上神は、御自身の栄光をキリストの内に明らかにされます。そしてそれが故、私たちはそれを求めるのです。これは私達に割り当てられた権利であり又、求められるべきものなのです。パウロが「私は神の恵みを無にはしません」(ガラテヤ人への手紙2:21)と言う時、彼は、「私は、神が表しになるあわれみを拒んで、それを無効になんてしない!」と意味しているのです。
神を本当にあがめる人々は、彼の約束による祝福を求めます。彼らは、彼の愛の栄光をキリストの内に見、自らの乱れたたましいを癒し、落ち着かせる為に、その栄光をつかまえるのです!
「イスラエル人はモーセの顔を見た。まことに、モーセの顔のはだは光を放った。モーセは、主と話すためにはいって行くまで、自分の顔におおいを掛けていた。」(出エジプト記34:35)人の顔つきというのは、その人の心の内にあるものを表わします。そして、ここでのモーセの顔は、ただ彼のたましいの内にある神の栄光を反映していたのです!
これ以前にモーセは、四十日間、朝も夜も主と共に閉じこもっていながら、彼の顔つきには何の変化もありませんでした。その時彼は、神の聖なる臨在から、イスラエルの民の金の仔牛への偶像礼拝を取り扱う為に出て来ました。その際には誰一人として、彼の紅潮した顔つきを見る事はありませんでした。しかし、後になって神の栄光が彼にとって現実のものとされた時に、それが、モーセの顔つきを変えたのです!
あなたは、神の臨在の中に好きなだけ浴する事ができます。しかし、それと彼の栄光があなたの内に明らかにされるという事とは全く持って別の話です。パウロはこう証言しました。「生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私
のうちに啓示することをよしとされた」(ガラテヤ人への手紙1:15-16)
パウロはこう言っているのです。「私は自らの内側に、誰かが考え出したような教義以上のもの、キリストに関して単に主だった知識以上のものを持っています。私はキリストがどなたであられるのかという啓示、つまり、彼の恵み、あわれみ、そして愛の啓示を得ているのです。そしてこの啓示は、私が私である事と、私がする事全ての、源そのものになりました。それはまさに、私のいのちに不可欠な要素なのです!」
神の栄光の啓示は実に驚くべきものです。しかし多くの人々は、その啓示を罪を犯す許可証へと変えてしまいます。ユダはこのような人々を、「私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たち」(ユダの手紙4)と描写しています。
パウロによれば、このような人々は、「恵みが溢れる為」に罪を犯すのだそうです。彼らは本質的にはこう言っているのです。「もしも神が、あわれみと赦しを通して自分を表現される事を好むのなら、私は彼にあらゆる好機を与えましょう。私は罪を犯し続けて、彼に私の事を愛し続けさせて差し上げるのです。そうやって恵みが溢れるように。それは世に向けての、なんという証になる事でしょう。私が天から降りてくる愛の全ての的になるなんて!」
このような人達を見つけるのは簡単です。彼らの顔つきが、その正体を暴露するのですから。イザヤは、イスラエルの人々の事をこう言い表しました。「彼の栄光の目に逆らい、彼らの顔つきが、彼らに答えている」(イザヤ書3:8-9参照) この預言者は、別の言い方で言うと、「あなたがたの罪が、あなたがた自身の見た目によってあなたがたに答えています。あなたがたの心にあるものは何でも、それ自体があなたがたの顔つきに表れるようになるのです!」と言っていたのです。
その反面、最も粗野な罪人達でさえ、あなたが「イエスと共にいる」時には、それを知る事ができます。どうやって?彼らには、あなたが他の誰にも似ていないように見えるからです!彼らはこう言うでしょう。「あなたは何かが違う。あなたは謙虚な自信を持って振舞っている。それに自分自身についての事は何一つ隠されていないみたいだ。あなたの目には一点の暗い隠し立てもない。何かしらの悪意や恨みも持っていないようだ。もしなにかあれば分かりますよ。あなたの人生は開けっ放された本のようですね。」
しかしながら罪は、ある決まった顔つきを持たせます。どんな笑顔もそれを隠す事はできません。そしてその声は、中身のない音、大げさに鳴り響くラッパや、無造作になるシンバルの音がします。しかし、神の栄光を自分のものにしてきた人々は、日々変えられています。彼らの顔つきは、イエスの顔つきにもっともっと似たものとなってくるのです!
モーセの顔と心から発せられていたきらめきは、神の本質の完全なるものを、ほんの少しばかり見た事の結果でした。それでも、イスラエルの民がモーセの顔つきを見た時、彼が何か超自然的な経験をした事が彼らにはわかったのです。彼の姉妹も兄弟達も、「この人は神と、顔と顔とを向かい合わせてきたんだ。彼は遥か彼方まで行って来たのだ!」と絶叫しました。
今日私達は、モーセが得たものよりも遥かに栄誉あるものを持っています。私達は実際に、神の栄光に触れ、それを手で扱う事ができるのです。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて・・・」(ヨハネの手紙第一1:1)
ヨハネはここでこう言っているのです。「神は御自分の完全なる栄光を、キリストにおいて私達に明らかにして下さったのです。私達は彼の栄光が、一人の人として肉体化したのを見ました。そして私達は彼と語り、彼に触れる事さえしたのです!」
私達は今日、完全なる神の栄光を見るだけではありません。それは私達の内にとどまっているのです!彼の栄光は、私達の心の中で輝きを放っているのです。「「光が、闇の中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」(コリント人への第二の手紙4:6)
パウロの意味するところは、「イエス・キリスト、人となった神は、神のすべてを身に備えております。そして、神が誠実、愛、あわれみ、恵み、そして我慢強さであられるからには、それがキリストの本性である事も、私達に保証されているのです。イエスが私達の心に住まわれているのですから、神の栄光が単に宇宙のどこかにあるというのではない事を、私達は知っています。そうです。神の栄光の完全なるものは、キリストの存在を通して、私達の内にあるのです!」
「すべての人を救う神の恵みが現われ・・・」(テトスへの手紙2:11)この恵みとは誰の事でしょう?あわれみと寛容と愛に満ちた、イエス・キリストの事です!
「私たちに、不敬虔とこの世の欲を捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活するようにと教えさとした。」(12節参照) パウロは私達にこう教えているのです。「あなたの内にとどまる恵みは、キリストの誠実さの啓示なのです。そしてもしもあなたが彼の内にとどまるのなら、彼の啓示が、あなたを聖なる生活へと導く事でしょう!それはあなたに、あわれみ、恵み、穏やかさ、そして赦しを教えるのです!」
私達は、いったんこの神の栄光の啓示を受け取ると、人の事を昔のように扱い続ける事ができなくなります。それは全て変わらなければいけないのです!
パウロは、「もしも主が、あなたに対してどれほど穏やかで、やさしく、愛情深くあられるのかを見せて下さったのなら、あなたもこの神の御性質と同じものを、人々に見せるべきです。」と、はっきりと警告しています。「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ人への手紙4:31-32)
神はパウロを通して私達にこう伝えているのです。「あなたがたはわたしの栄光を見た。そして、わたしの本性と属性、っまりわたしが寛大で、あわれみ深く、我慢強く、赦そうとしているものだという事を知っている。さぁ、わたしは今あなたがたに、わたしが誰であるのかを人々に表現してほしい!」
モーセは、この神の栄光の啓示を得たのにもかかわらず、ある一点において、それを人々に誤り伝えてしまいました。神はイスラエルの民の不従順さにイライラするようになったのです。その為に彼は、まるで、「おまえたち、傲慢で強情な反逆者達め!」とでも言わんばかりに、自分の杖で、岩を腹立たしげに打ったのです。
神は、全くもって、それを快く受け入れられませんでした。彼があなたに、いったん御自分の栄光、つまり、彼のやさしさ、誠実さ、恵みとあわれみを明らかにされたら、あなたがその栄光を人々に誤り伝える事に対してお許しにはなりません。モーセはここで、イスラエルの民に対して、その栄光を誤り伝えました。そしてその結果として、旧約聖書において最も柔和で、最も敬虔な人物の一人であるモーセは、神の豊かさから外されてしまったのです。彼は約束の地に入る事を許されなかったのです!
私達はこれに関するもう一つの実例を、イエスのたとえ話の中に見つける事ができます。彼は、大きな負債を主人に免除され赦してもらったしもべの話をします。主人はこの男に、信じられないほどの優しさと、恵みと赦しを表しました。しかし、このしもべは赦されてすぐに、自分に対して小さな負債を負っていた男を見付けました。そして彼はその負債者の首を、全額返済するまで絞め続けたのです。大いなる愛と赦しを経験した張本人が、そのお返しとしてのあわれみを表さなかったのです!
イエスはこのたとえ話において、こう言っているのです。「あなたは父の愛を誤り伝えている!彼はあなたに、やさしさと、あなたの数々の罪への赦しを通して、御自身の、大いなる栄光に触れさせて下さった。それなのに、彼の栄光を見たあなた自身が今、それを世に誤って伝えている!」
これはパウロの、「彼があなたにそうして下さったように、あなたも人にあわれみ深くありなさい。」という命令の内に要約されます。ここでの「あわれみ(マーシー)」という言葉は、ギリシャ語の「不幸(ミザリー)」という意味の言葉(ミゼリコルディア)から引き出されています。この言葉の完全な意味は、「慰めと安心を与える心構えを持って、隣人の不幸を心にかける。」となります。あわれみ深くあるという事は、他の人の痛みを引き受けるという事なのです!
これはまさに、私達の主が私達の為にいつもして下さる事です。イエスはどれくらい数多く、あなたの不幸や苦悩を引き受け、そのお返しに慰めと、安息と赦しを与えて来て下さった事でしょうか?あなたがそれを受け取るに値しない時に、彼はどれほど頻繁に、あなたの涙をぬぐって、やさしい言葉をかけて下さった事でしょう?彼は何度も何度も何度も、そうして来て下さったではありませんか!
あなたに訊ねます。それならあなたはどうして、傷付いている知人の不幸や痛みを、引き受ける気持ちになれないのですか?「やさしさ(kindness)」という意味のギリシャ語は、その語源を二つ持っています。「神の啓示(oracle)」と「柔らかい手ざわり(soft touch)」です。あなたはキリストにおける兄弟姉妹に、主からの希望のみことばを柔らかいタッチの慰めと共に彼らに与える、神による希望の啓示となっているでしょうか?聖書に拠れば、あなたが彼の愛の啓示になる為にしなければならない事は、イエスがどなたであるのかを人々に表現する。ただそれだけなのです!
「同情(コンパッション)」という言葉は、「他人の不幸によって心が触れられ、影響され、その事に関して何かをしようと決心する事」を意味します。これは、不義の中にいる人に近づいていって、「兄弟。私は天から、あなたへのみことばを頂きました。あなたの生活には罪がある!」と伝える事ではあり
ません。
もしもそうなら、その人はいずれにせよ、もうすでにその事を知っているでしょうし、それに、おそらく彼はエレミヤの叫びを持ってあなたにこう答える事でしょう。「どうかお願いです、怒りの内に私を扱わないで下さい。もしもそうされたら、わたしは無に帰してしまいます。私はもう十分深く落ちているのです。これ以上私を落ちぶれさせないで下さい!」
もしもあなたが、主の栄光の啓示を得た事があるのなら、あなたは彼の愛、あわれみ、そして赦しを味わう事がどういう事なのかを知っているでしょう。そして又、あなたはその栄光によって今変えられ続けているのです。今、イエスは、その栄光を手に取り、あなたの周りの世界の上で輝かせなさい、とおっしゃるのです。あなたの主が絶えずそうして来て下さったように、今こそ愛を持って行動する時なのです!
(翻訳 星 志保)