神は決してその民を見捨てない。
「主は公義を愛し、その聖徒を見捨てられないからである。正しい者はとこしえに助け守られる。しかし、悪しき者の子孫は断ち滅ぼされる」。(詩篇37:28)
ルカの22章 では、イエス様はもっとも熱心な弟子達に厳かに戒めています。キリストは弟子ペテロを呼び、はっきりと仰いました。「シモン、シモン、見よ、サタンはあな たがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」。(ルカ22:31-32)
サ タンがペテロを試みようとした事を驚くクリスチャンはあまりいないでしょう。特に聖書はペテロを弟子達のリーダを示していますから。悪魔がこの勇ましい弟 子を試みる神の許しを得ようとしたのは驚くに値しません。聖書はサタンの主な目的はイエス様に使える者達の信仰を砕く事であるとはっきり示しています。イ エス様の12人の内弟子の中でもペテロはキリストにある信仰によって行動する人でした。
しかし、ここに多くのクリスチャンが期待しない事実もそこに含まれています。それは、主が沙汰にペテロを試みる許可を与えた事です。そうです。私達の天の父は彼の尊い僕が悪魔の策略へ掛けられる事をお許しになりました。
考 えてみてください。イエス様は既にペテロの信仰告白がご自身の教会を立てあげる基礎にすると仰いました。それにも拘らず、キリストはペテロをサタンの火の 矢に晒す事で御自分の言葉が虚しくなる危険を犯しています。ペテロのように大胆に信仰告白するとしても、彼が間違いだらけの人であることも私達は知ってい ます。
もし、ペテロが試みに負けるならどうなることでしょう。キリストはサタンの攻撃に脆い誰かの言葉の上にご自身の教会を立てるのでしょうか。その上に、愛に満ちる神がその愛する者をそんな厳しい目に合わせたのでしょうか。これが沢山のクリスチャンが持っている疑問です。の愛する者をそんな厳しい目に合わせたのでしょうか。これが沢山のクリスチャンが持っている疑問です。
ある信仰者達はこの天の父のやり方は全く理解できません。
教会の多くの人達にとってこれは、慈しみ深い神がなさると、受け入れ難いものです。しかし、聖書はペテロに起きた事が主に愛された多くの信仰深い者達に起きた事を示しています。
例 えば、これがヨブに起きた事と全く同じことです。かの義人がどのようなことになりましたか。財産、家、自分の尊い子等さえ失いました。ヨブがこれらの苦悩 の喪失に苦しんだ時、彼の敬虔な友等が戸惑ったのは驚くに当たりません。彼等は神がその忠実な僕をサタンにそれだけ激しく試みさせる事が受け入れられませ んでした。彼らはヨブがきっと何かをしたのでこのことが起きたに違いないと思っていました。
しかし、そんなことはありません。ヨブ書の最初に、サタンはヨブを試みる神の許しを得ようと天に入る場面が描かれています。そして、神はそれをお許しになりました。神は悪魔に正しい人を苦悶の試みに、彼の信仰の限界まで試す苦闘を許可しました。
愛 する皆さん、聖書の沢山の例が明らかにしています。サタンが神の僕(義なるヨブと熱血のペトロを含めて)の信仰を試みるためには天の父の明確なお許しがな ければなりません。私達は神の言葉が昨日も、今日も、永遠に変わらないと示されたように神が変わらない事を知っています。(ヘブル13:8)ですから、かの愛された僕に起きた事はイエスを告白する全ての人に起きると考えなければなりません。
しかし、この事を気に留めてください。サタンは主の許しなくして神の子の信仰を決して揺るがしたり、試みる事ができません。この事は何を意味するでしょうか。単純にこれです。「神はサタンが私達を試みられる時、毎に意味と計画を持っておられます」。
真にイエス様がペテロを戒めた時、イエス様はかの弟子を素晴らしい言葉で励ましました。「しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」。(ルカ22:32)明らかにキリストはペテロがその試みに於いて自分の信仰を失わない事を知っていました。これはイエス様が、ペテロが直面した激しい試みに明確な計画があったことを示します。
それは今の私達にとっても同じです。イエス様がかの弟子の為に祈ると約束されたのは単にペテロだけではなく、後の世代でキリストを従う全ての人にしたことです。
たくさんの聖書箇所で、キリストの警告は繰り返しされています。
黙示録はサタンが終わりの日に自分の時が短い事を怒り、地に下ると記しています。そして、いまやサタンはあらゆる方法で聖徒達を攻撃しています。「悪魔が、自分の時が短いのを知り、激しい怒りをもって、おまえたちのところに下ってきたからである」。(黙示録12:12)
また、私達は仇「サタン」が吠え猛る獅子の様に食い尽くすものを求めている事も知っています。「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている」。(1ペテロ5:8)言い換えれば、悪魔の目的は神の選民の信仰を無くし、飲み込むことなのです。
同じように、サタンは全ての」信じる者に対して盗人のように来ると言われています。「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない」。(ヨハネ10:10)そんな盗人は犠牲者から盗むだけではなくその信仰を根絶やしにしようとします。
最後に、私達はサタンが戦慄する恐れととてつもない攻撃によって私達の信仰を押し流そうと洪水を神の人に対して齎すといわれています。「へびは女の後に水を川のように、口から吐き出して、女(教会)をおし流そうとした」。(黙示録12:15)
私達は気をつけなければなりません。明らかにペテロは躓くことがないためには彼の信仰をキリストが祈ることが必要でしたが、ペテロはその忠告に耳を全く傾けませんでした。
高ぶって、ペテロは自分の信仰がサタンの攻撃に耐えられると考えました。
皆さんはペテロが自分の信仰について公言したことを覚えているでしょう。「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」。(ルカ22:33)ペテロがあまりにも大っぴらに言ったのでそれが霊的に大胆であるように見えますが、これはパウロが教会に諫めている肉の高ぶりを象徴しています。「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」。(Ⅰコリント10:12)
パ ウロによれば、私達は霊的戦いに於いては自分に謙遜である姿勢を常に示すべきといっています。ユダ書にもそんなことが書いています。「御使のかしらミカエ ルは、モーセの死体について悪魔と論じ争った時、相手をののしりさばくことはあえてせず、ただ、「主がおまえを戒めて下さるように」と言っただけであっ た」。(ユダ書9)神の言葉はそんな謙りが必要である事を明らかにしています。
そ れにも関わらす、多くのクリスチャンはその事を忘れています。しばしは、クリスチャンが「殉教者になってもいい。何がおきても、主と供に死ぬ用意が出来て いる」など言うことを聞きます。ペテロはそれと同じ事を言っていましたが、いざとなっては彼はそうする用意が出来ていませんでした。実際にイエスの為に死 ぬ場面では、自分が決してしないだろうと考えたことを、イエス様を否むことをしてしまいます。
その危機の中で、ペテロがイエスの信仰を宣言すべきところで、彼は呪いました。恐れと戸惑いの中で、彼は周りの人達に抗辯しました。「私はその男を知らない」。ペテロにとって何と情けない瞬間だったんでしょう。一番大胆な信仰者は命を恐れる臆病者に成り下がりました。
沢 山のクリスチャンはペテロがしたような事はしないと考えていると思います。彼等は自分はそんな大きな罪には関わりないといいます。しかし、その時になれ ば、自分は死に至るまでイエス様に従うと考えてしまいます。そんな人達に言います。キリストを従う誰一人もヨブやペテロの失敗を超える者はいません。悲し みや試みが、彼らに迫った様に悪しき者から来るなら、私達全てがそんな信仰の危機に晒され得ます。
この事を言って、失敗を恐れさせようとしていません。
この事を言ったのはこれが極めて深刻なことだからです。聖書は明らかにしています。そして私は沢山の信仰者がそんな失敗を犯そうとしているのを見ています。
今、 私は、その信仰が揺り動かされた、そんな神の僕を間の辺りにしています。大きな信仰の人達、ある人は癒しや奇跡を行う説教者の人もいます。決して神の忠実 さを疑ったり、揺れ動くと考えたりすることがなかった聖徒達です。嵐を通り抜ける事が出来る人達はこの神の僕達だと考えていました。
しかし、ある人達は神が祈りに答えん事まで疑っています。嘗て神への彼らの信仰の堅固さは他の人の信仰に火を付けましたが、今やヨブやペテロのように考えられない難航が彼らに迫りました。そして彼等はその試みの激しさに力を失い、揺らいでいます。
ペテロがこの攻撃を受けている時、イエス様は彼の為に祈っていました。私にはこれが聖書の中で最も力付けられる言葉です。「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」。(ルカ22:32)イエス様がペテロに言った事を考えてみて下さい。イエス様はペテロに、彼がどんな状況にいても、キリストを否む事を含めて、どんな事を通るだろうと、彼の信仰は躓かないと宣言しておられるのです。
一瞬たりともペテロは神に見捨てられたのではありません。ペテロがイエスを否み、その場から逃げ去った後にも見捨てられていません。かつて大胆であった弟子は砕かれ、苦悶していましたが、一時も一人ではありませんでした。そして、愛する皆さんも一人ではないのです。
あなたの試みが、苦しみが、試みが、失敗が、どんなものであろうが関わりありません。
この時にも、嵐、痛み、悲しみの只中で、イエス様はあなたを執成(とりな)しています。イエス様はあなたを決して見捨てないでしょう。
イエス様がペテロに警告と同時に与えた励ましを見て下さい。「それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。(22:32)これはイエス様がペテロに与えた警告の終わりに、その同じ文書にされています。
愛 する皆さん、私達を神が裏づけ、励ましています。創造主が御手で私達を支えているのです。主はペテロにしたように私達にも言っているのです。「起きて、行 きなさい。自分の失敗に目を向けないで、私の羊を養いなさい。敵がどのようにあなたに働くかをわたしの尊い者に警告しなさい。そしてわたしの手で彼等を全 ての試みの中支えていると言いなさい」。
ペ テロには重要な仕事がありました。彼はこれから説くべきと定められたメッセージを自ら最初に体験し、備えられなければなりませんでした。イエス様は教会に 私達がサタンの計略に無知でいる事が出来ないと言っています。ペテロは神の尊い者達が直面する試みだけではなく、忠実な神が彼らのどん底でも見ておられる 事を語りえました。
私達は仇の計略や方法を知っておく必要があります。サタンが用いる武器の中で最も強力なのは偽り-嘘吐きの口先から私達へ、悪意に満ちた偽りです。その中でも一番大きな嘘は何でしょう。神がその民に忠実ではないということです。
今まで彼が人の営みでしたように、サタンは私達を篩に掛けようと神の許しを要求しています。彼は私達の家庭、結婚、子供、健康、仕事、将来、主にある私達の信仰自体を攻撃しようと願っています。これが黙示録で話している洪水、信仰者に降りかかる試みの洪水のことです。
それでは、信仰者にとって、どれだけ悪くなるだろうか。神さまが私達を篩に掛ける許可を与えたのなら、それが何なのだろうか。ヘブル所の11章に、様々な試みを耐え抜いた信仰の英雄や殉教者が記されています。聖書は言っています。「これらの人々はみな、信仰によってあかしされた」。(ヘブル11:39)
かの殉教者達が受けた同じ苦しみと困難が今でも信仰者達が受けています。
イ ラクの多くのクリスチャン達が戦場で信仰ゆえに危険に晒されています。多くの聖徒達が命からがらに、家を、職場を、教会を捨て、逃げなければなりません。生きる為、クリスチャンを迫害するシリア、ヨルダンや周りの国に逃げなければなりません。彼等は家も仕事も救援もありません。日々の糧 の為に毎日祈らなければなりません。多くは殺されましたが、彼等は避難した外国で、福音に仕えました。
私 はそのイラクの信仰者の証しのいくつかを聞いています。彼等は「デーヴィット兄弟、苦難の時はやがて来るのではなく、この何年間が苦難の時、そのものであった」とわたしに書いています。彼等は何世代もの苦しみ続けたので、信仰に固く立つことを学びました。ペテロのように、キリストの教会でその警告を力強く語れる様に備えられています。
私は多くのる信仰者達が悪魔の攻撃、悪霊からの絶望的な状況を耐えていると思います。あなたがそんな信仰の試みにあっていないなら、感謝して下さい。謙り、決してあなたの信仰の強さを誇ってはなりません。
サ タンは、試される者が疲れ、力や忍耐が尽きるまで待っています。サタンは全ての祈りが答えられないように見えるまで、全てが絶望的で、人ではどうしようも ないと見えるまで待ちます。それが、ペテロの目の当たりに、サンヘドリンで主が辱めを受けるのを見た時、起きた事です。これが、愛しているものを全て 失って、ヨブに起きた事です。
試みられた魂の心に疑問が、神よ、あなたは何処にいるのかと疑問があがる時、何故私の祈りは答えられないのかと問う時、サタンはその恐ろしい嘘を囁くのです。「神はあなたを見捨てている。置き去りにしている。彼はあなたを聞かない」。
神はあなたを見捨てていません。神は決してそうしません。今、神はあなたに語っています。「あなたに保障する。わたしはあなたを決して離れない。さあ、起 きて、わたしの羊を養いなさい。あなたに対するサタンの計略を心に留めなさい。わたしは世の果てまであなたと供にいる」。アーメン